平穏な夜だ…愛用の錫製タンブラーに米焼酎を注ぎ、何となく傾ける。

最近のニュースに触れると、こういう「如何でも構わないような…」という風情の平穏な夜が有難いという気分になる。

英語メディアでは「謂われなき攻撃」、露語メディアでは「軍事行動」、日本語メディアでは「侵攻」という表現が目立つか?ウクライナの事案が気になる。

複雑な事情も在る国で、ぶつかり合った思惑から、今般の問題が発生した。時間が経つ毎に犠牲が増えるような様子に気持ちが曇るばかりだ。不安な時間を過ごす人達も多いことであろう。

ロシア側の「制空権」等の確立に向けた行動が続いているように見えていたが、そろそろ「地上戦」の激化も在るだろうか?犠牲が拡大してしまう…

何やら「制裁」とは言うのだが、クリミアの問題を踏まえて既に8年近くも続けていた。で?如何かなっただろうか?「だから強化!」ということかもしれないが、結果論として「色々な国々に訳の判らん混乱が拡がる…」ということに終始してしまうような気がしないでもない。

「何処までやる??」という具合のような気もする。ハッキリ言えば、ロシアであれ、他の何処の軍隊であれ、「ウクライナ一国」という程度の広大な版図を占領し続けること等、困難だ。「出来る筈が無い!」という感さえ否定出来ない。だから、「どの辺りで“落とす”?」というように観るのだ。

時間が掛かれば掛かる程に犠牲は拡大する。収拾は速ければ速い程好い筈だ。

とりあえず中立的に聞こえる表現の「軍事行動」と言う。軍事行動というようなニュースを聞けば、「何やら犠牲が…」と気持ちは曇る。が、ウクライナだのロシアだのということになれば、「所縁の深い個人的な知り合い」の風貌やが思い浮かばないでもなく、そういう人達と話した様々な事も思い出さないでもないので、殊更に気持ちが曇る。

結局、30年前に“ソ連”が「旗を下ろした」というあの時の「後始末…」が「雑だった?」というような気もしないではない。

“ソ連”というのは、例えば「米国市民」というような程度の「強い!」感じで「ソ連市民」という概念を完成し損なったのかもしれない。1990年代に「民族!」で先鋭的な動きも確かに在った。他方で「連邦の域内のゆるやかな一体感」というのは確かに在ったのかもしれない。それが“ポストソ連”で「連邦の各共和国が各々に独立国」ということになった。

ウクライナというのは「連邦の域内のゆるやかな一体感」ということで、「半ば他所」という程でもない「ロシアの少し遠目な地方」というような「感じられ方」をしていた地域だったのかもしれない。それで落ち着いていたソ連時代の後に、或いは「ウクライナ万歳!!」というような感覚も台頭して、多少面倒になってしまっていたという一面が在ったのかもしれない。が、それはそれとして、特定の勢力による「武力行使」で現状を変えてしまおうとするような振る舞いは、少し思い止まって頂きたいものだ。

時差の関係上、「眠っている間に、現地の“午後の動き”というような感じ」になって、事態の「続き」が続々と出て来る訳だ。ロシア軍が得意な、頑丈な主力戦車を先頭に、破壊力の大きな“ロケット”が続いて、対峙する人やモノを「爆砕」しながら進んで犠牲が拡大という戦いが展開するのか??少なくとも…「如何でも構わない人の生命」というのは考え悪い筈だ。地上戦が始まって、それが激化することは避けて頂きたいものだ。

結局?「加盟していない国に実戦部隊を容れることにもならない…」とNATOは戦力を投入しない、または出来ないという「足下!!」をロシア側は確り観ていたのだろう。直接に戦力投入をしない、出来ないというなら「それなりの牽制方法」は在ったのかもしれないが。こういうのは「プロ野球中継の一部の解説者が口にする、不愉快になる場合も在る結果論」と似たような構造の話しで恐縮だが。

このまま…休んで不意に起きて「続き」のニュースをチェックするというようなことも在るかもしれない。

米焼酎を満たしたタンブラーが空いてしまった…