多磨霊園(32)  田健次郎 | ミリタリーイベント

ミリタリーイベント

過去の各種基地祭、航空祭の写真を掲載していきます。(2019/3/1)
ヤフーブログからの引っ越しです。

多磨霊園(32)  田健次郎

 

田 健治郎(でん けんじろう)
安政2年2月8日(1855年3月25日)- 昭和5年(1930年)11月16日
官僚、政治家、華族(男爵)
衆議院議員・貴族院議員・逓信大臣・司法大臣・農商務大臣・台湾総督・枢密顧問官等を歴任
田艇吉(衆議院議員)は兄、田英夫(参議院議員)は孫、先祖に元禄時代の女流俳人田捨女

平田東助、清浦奎吾、大浦兼武らと共に元老の山縣有朋系の官僚政治家として活動。
男爵に叙爵される。九州炭鉱社長も務めた。
技師の橋本増治郎と出会い技術力を高く評価し、九州炭礦汽船株式会社の役員を務めていた竹内明太郎と橋本の自動車への夢の後ろ盾となり支援を始める。
橋本の同郷の友である逓信省技師の青山禄郎も援助に加わり、明治44年橋本は東京渋谷にて日本最初の自動車製造メーカー「快進社自働車工場」を創業。
大正2年日本初の国産自動車の製造に成功。

田健治郎の「D」、青山禄郎「A」、竹内明太郎「T」と支援者の名前の頭文字を取り「DAT」と名付け、「ダット号」として発表。
*ダットソン号は量産化を念頭に開発されており、戸畑鋳物および日本産業の鮎川義介は1931年にダット自動車製造を戸畑鋳物傘下に収める。
1932年は、DATSONの“SON”が日本語の“損”に聞こえ縁起が悪いということから、英語で同音のSUN(太陽)に変え、DATSUN(ダットサン)と改称。
ダットサンは日産自動車の源流。


 

 

私の愛車のエンブレム7も "DATSUN" だった