多磨霊園(31) 西郷従道
西郷 従道(さいごう じゅうどう / つぐみち)
旧字体: 西鄕 從道󠄁、1843年6月1日(天保14年5月4日) - 1902年(明治35年)7月18日
政治家
最終階級は元帥海軍大将、陸軍中将
名前は「つぐみち」だが、西郷家では「じゅうどう」が正訓となっている
兄の西郷隆盛が「大西郷」と称されるのに対し、従道は「小西郷」と呼ばれている
文部卿(第3代)、陸軍卿(第3代)、農商務卿(第2代)、元老、海軍大臣(初・4代)、内務大臣(第2・14代)、貴族院議員を歴任
隆盛が1877年(明治10年)に西南戦争を起こした際、従道は隆盛に加担せず、陸軍卿の山縣有朋が政府軍を率いて九州へ出征したため、陸軍卿代理に就任し政府の留守を守った。
(従道が陸軍少将になった後、明治6年に、武力をもって朝鮮を開国しようとする「征韓論」を巡って、留守番政府の首脳であった西郷隆盛と政府が対立する。
その際、薩摩藩出身の多くの人々が西郷隆盛に従ったが、西郷従道は隆盛の「おはんな、東京に残れ」という言葉に従い、明治政府側として残った。)
以後は政府内で薩摩閥の重鎮として君臨。
面影が兄・隆盛に似ているとされ、エドアルド・キヨッソーネが隆盛の肖像画を作成する際、
彼の顔写真が参考にされた(首から上は従道を、体の部分は大山巌を参考にしたといわれる)。
大山巌は、従兄弟
横には西郷家の墓が有る
西郷家の墓所は多磨霊園の中で一番広く、面積は288平方メートル、約87坪、約 畳174枚分。
左から「西郷家」、西郷従道の墓、従道の妻の西郷清子の墓、従道と清子の長男の西郷従理の墓の4基建つ。灯篭は12基建つ。