2019年にチーム創設90周年を迎えたスクーデリア・フェラーリは、F1が初めて開催された1950年のシルバーストンから現在まで、一度も途切れることなく参戦し続ける唯一無二のレーシングチームである。

この「続ける事」、つまり、F1という自動車レースの世界におけるフェラーリの「継続の力」がどれほど偉大で強大なのかを、人々は改めて認識すべきだと思う。しかし、チームの歴史が古ければその分、闇の記憶も多くなる。F1参戦70年以上の歳月を刻むフェラーリのレース優勝回数234は、マクラーレンの182回を大きく上回る歴代トップだが、その何倍ものレースで惜敗の涙を流し続けてきたのだ。そうした意味でスクーデリア・フェラーリの90年は、敗北と挫折、そこからの復活の歴史と表現してもいい。

今回語るのは、そんな跳ね馬の「闇の時代」に余りにも美しく輝いた、ガラス細工のような繊細な心を持つひとりのレーシングドライバーの物語だ。

 

1977年のシルバーストン。決勝レースのグリッドに並ぶマクラーレンの、3台目のクルマに座る見慣れないドライバーを目にしたあるジャーナリストは、その若者をこう表現した。

「小柄で華奢、いかにも純情で繊細そうなカナダ人」。

これが、ジル・ビルヌーブ。1950年生まれだから、27歳のF1デビューは、たぶんこの時代でも遅咲きだったと思う。しかも、ジルに華々しい成績はなく、キャリアを通した優勝は6回、ランキング最高位も2位だった。しかし、彼は今もフェラーリをこよなく愛するイタリア人「ティフォシ」の記憶に残る、トップ3ドライバーのひとりだ。メディアによっては、ミハエル・シューマッハよりも愛されていると言われる、その理由は何か。

健気な純情さ、頑なな一本気、卓越したドライビング技術と人々を魅了する速さ、そして何より彼自身のたどる悲劇的な運命が、フェラーリの闇の時代に余りにも美しくキラリと輝いた事である。

 

マクラーレンでF1デビューしたジルだが、跳ね馬ドライバーへの道は好運にも同じ年に拓けた。チームとの確執に嫌気のさしたニキ・ラウダは、1977年シーズンのワールドチャンピオンを確定させた後の2レースをボイコットした。そこで、フェラーリはジルを引き抜き、地元カナダのレースで走らせたのだ。10月9日の事である。

当時のカナダGPはモスポート・パークという場所で開催されており、嬉しい地元デビューとなったジルの決勝レースのリザルトは12位完走。それでも、カナダ人初の跳ね馬ドライバーに、観客は大声援を送ったそうだ。

ジルがもっとも輝いたレースは、何と言っても1978年シーズンの最終戦だろう。モントリオール市内を流れるセントローレンス河の人工島に出現した、真新しいコース。ここで初めて開催されたF1カナダGPで、多くのカナダ人の巨大な期待を、その小さな背中に背負い見事に初優勝して見せた。

そのとき、客席を埋め尽くした人々の心と体で感じたモノが、このサーキットの名前になった。地元の、新しい会場の「こけら落とし」のレースで、自身のキャリア初勝利…これは、実力以外の何かを体内に秘めていなければ、決して現実にはならない。そんなジルの性格を、当時のメカニックが回想している。

「79年のオランダGPだった。タイヤがバーストして、リアサスペンションごと千切れたってのに、彼はコクピットから出ようとしない。俺たちがもう終りだと何度言っても、ステアリングを握りしめたまま前を見つめていたよ」。

「いつも真っ直ぐに、ただ走る事だけ考えて…他には何もない。純粋にシンプルで、俺たちの真のヒーローだった…」。

 

ジル・ビルヌーブのF1キャリア、いや、人生そのものの最終章である激動の1982年がやって来る。この年のスクーデリア・フェラーリのエースドライバーはジル、チームメイトはディディエ・ピローニだ。開幕早々、ドライバーたちのストライキが勃発してジルの心を掻き乱し、2戦目はリタイア、続く3戦目のアメリカ・ロングビーチでようやく3位に入りひと安心…のはずだった。ところが、リアウイングの合法性がなんだ・かんだで失格し、ジルは3位を失ってしまう。

物凄い勝利への渇望…灼熱の砂漠を1週間さ迷ったとき、冷たい水を欲する気持ち…そんな心理状態のジルが、サンマリノGPのイモラにいた。

82年シーズンの第4戦は、現在では考えられないような事態となった。開幕戦のドライバーストライキも凄いが、第4戦では多くのチームがボイコットし、7チーム14台だけが走るレースになったのだ。現在はFIAの管理下にあるF1だが、82年当時は「国際自動車スポーツ連盟」と「F1製造者協会」というふたつの団体が存在していた。シーズン開幕当初から彼らは何かとモメており、第3戦でのジルの失格もそのひとつだった。

そしてついに、サンマリノGPでF1製造者協会に所属するチームが抗議行動に出たというワケだ。この状態の決勝レースで、フェラーリの敵はルノーだけだった。でも、フランスのクルマは早々と2台リタイア。フェラーリの2台、ジルとピローニが3位以下を大きく引き離した1―2体制となる。

そんなレースの、ゴール直前に事件が起きた。終盤は前にジル、すぐ後ろにピローニという状態。燃料セーブしながらの流し走行でイモラの最終コーナーを立ち上がったところで、突然、ピローニが加速しジルの前へ出てそのままゴールしたのだ。エースの自分が1位という、当然の確信でゆっくり走っていたジルにすれば、チームメイトのとった行動はなんとしても許し難いモノだった。

後にピローニは当時を回想し、こんなコメントをしている。

「ジルを勝たせるなんて事前の約束はなかったし、チームオーダーもスロー走行だけでポジション維持の指示はなかったよ。あれは退屈なレースだったからね。最後にちょっと盛り上げようと思っただけさ。観客を喜ばせるエンターテイメントだよ」。

しかし、メカニックの言う「いつも真っ直ぐで、純粋にシンプル」なジルの性格では、ピローニの見せたエンタメ・サービス精神がどうにも理解できなく、脳裏に焼き付いたのはチームメイトの裏切りという思考だった。

渇望していたシーズン初勝利を、裏切によって奪われた…そう信じたジルは以後、ピローニとまったく会話しなくなり、代わりに物凄い対抗意識を見せるようになるのだ。そんな状況で、運命のベルギーGPを迎える。

 

1982年5月第1週の金曜日。当時のベルギーGPの開催地はゾルダーという名のサーキットで、金曜日に予選がおこなわれていた。その1回目のタイムアタックでは、ジルにとって「憎き裏切のチームメイト」が0・115秒自分を上回っていた。純粋で一本気なジルの心情は、想像に難くない。物凄い勢いで2回目のタイムアタックへとコースに飛び出て行った、これが、ジル・ビルヌーブ最後のピットアウト。もう二度と、彼がフェラーリのガレージに戻って来る事はなかった。そう、永遠に…。

スローダウンしていた目前のクルマを避けきれず、接触、大破。シートごと放り出されたジルは、フェンスに激突し帰らぬ人となった。

あくまでわたしの感じ方だが、82年シーズンのジルは、フェラーリのエースドライバーとしての限界を悟っていたかもしれない。資料に書かれた彼の発言や行動から、そんな心情が伝わってくる。ただ、間違いなく言えるのは、1982年のゾルダーで発生した悲劇が、ジル・ビルヌーブというドライバーの記憶を人々の心に深く刻んだ事だ。

天才的なコーナリング、切れ味鋭い加速。速いけど圧倒的ではなく、どこかに秘めた際どい脆さが、危うくも美しい輝きに感じられるレーシングドライバー。こんな魅力を放った人は、少なくともわたしの記憶ではジルしかいない。

 

1970年代から90年代の20年間、スクーデリア・フェラーリがチャンピオンを獲得した年はわずか3回しかなかった。そんな闇の時代のわずか5年間、美しくも儚く輝いたドライバーがジル・ビルヌーブである。