フォーリーブス | 鈴木いつみ ♨️

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フォーリーブス

男性アイドルグループ。所属事務所はジャニーズ事務所

1967年4月1日結成

1968年9月5日レコードデビュー

1978年8月31日解散

解散から24年を経た2002年に再結成を果たした。初期のジャニーズ事務所を代表するグループでもあった

 

1967年4月1日、ジャニーズの「太陽のあいつ」という曲のバックダンサーとしてグループを結成。メンバーは、元々ジャニーズの付き人だった北公次、3歳から子役で活躍していた江木俊夫、劇団若草出身でファッションモデルをしていたおりも政夫、同じく劇団若草出身の永田英二の4人だった。同年6月、大阪フェスティバルホールにてジャニーズが主演のミュージカル『いつかどこかで〜フォーリーブス物語』に出演。しかしまだグループ名は無く、「ジャニーズJr.」としての出演だった。

 

同年8月、第33回日劇ウエスタンカーニバルに初出演。この時、初めてグループ名が正式に『フォーリーブス』に決まった。 なお、「フォー・リーヴズ=Four Leaves(4枚の葉)」の意味が定説だが、本来の名前の由来は、ジャニー喜多川が脚本を書いた上記のミュージカル『いつかどこかで〜フォーリーブス物語』内のグループ名からで、「4つに“別れる、去る、出発する”」という意味の自動詞の「“leave”」である。

 

同年10月、結成メンバーの永田英二は当時小学6年生だったため脱退し、スクールメイツ出身の青山孝(2002年に青山孝史と改名)が加入。同じく同年10月より日本テレビ『プラチナゴールデンショー』にレギュラー出演するようになる。

1968年9月5日、CBS・ソニーレコード(現:ソニー・ミュージックレーベルズ)の国内契約第1号アーティストとして、シングル「オリビアの調べ」にてレコードデビュー。

1970年にはブロマイドの売上げが男性歌手部門の1位になり、衰退期にあった御三家グループ・サウンズザ・タイガースなどに代わり、新御三家が台頭するまでの間、トップアイドルとなった。オリコン最高10位と大ヒット曲はなかったが、冒頭の江木の名ゼリフ「だって地球は丸いんだもん!」で知られる「地球はひとつ」や、「夏の誘惑」などがコンスタントにヒットを重ね、1970年から7年連続でNHK紅白歌合戦出場を果たす。先輩格のジャニーズと同様に、ミュージカルにも熱心に取り組み、その姿勢は現在のジャニーズ事務所に受け継がれている。

ジャニー喜多川とメリー喜多川姉弟は「タイガーズやテンプターズなど、他の人気グループと違い、フォーリーブスはグループ内にスター的存在のメンバーを作らない」「言うなればメンバー全員がスター」という確固たるポリシーを結成当時から一貫して持ち続けていた。

二人は雑誌などでもたびたびその主旨の発言をしていた。また、1960年代前半にジャニーズの付き人をしていた北公次をどうしてもデビューさせたいがために、各所から人材を取捨選択して作ったグループだと後にジャニー喜多川が発言している。

 

ステージにおける歌唱やダンスにおいても、その「メンバー全員がスター」というポリシー同様、特定のメンバーが突出したり比重が置かれることは基本的になかった。メンバー全員が綺麗に振りを揃えたユニゾン・ダンスとハーモニーやユニゾンやパフォーマンスを重視するステージングであった。 そのコンセプト故に「フォーリーブスはグループでは人気があったが一人一人はスターじゃなかった」という関係者による評もあり、メンバー個々では主演級の役者やソロの歌手やアーティストとしての活躍は難しかった。

 

1971年に渡米し、「Season Of The Sun」(「夏の誘惑」のアメリカ録音盤)と「Don't Let The Sun Catch You Crying」の2枚のシングルを録音してMGMから非売品プロモーション盤として発表した。

1972年帝国劇場でミュージカル『生きていくのは僕たちだ!』に出演。

1973年8月にフォーリーブスへのプレゼント代や追っかけ費用を稼ぐために売春していたという女子中学生グループが書類送検されて批判を浴びた。同年、公開コメディー番組『とことんやれ大奮戦!』に出演。青山はNHKドラマ『銀座わが町』で初レギュラー。

1974年4月スタートのNHKの音楽バラエティ番組『レッツゴーヤング』に初代メインレギュラーとして出演。

1976年1月15日に常磐ハワイアンセンター(後のスパリゾートハワイアンズ)にて開催されたショーで16歳の少女が興奮のあまり失神死するという事故がおきた。

長く賞には恵まれなかったが、10周年記念曲として1976年にリリースした「踊り子」で、東京音楽祭ゴールデン・カナリー賞の受賞を皮切りに日本歌謡大賞特別賞、日本テレビ音楽祭特別賞等を受賞した。しかし当時人気は既に下降し始めていて、オリコン最高位は41位であった。なお、同曲のレコードでは北が歌っていたソロパートが、歌番組では青山の歌唱へ変更されていることが多かった。その年のNHK紅白歌合戦出場曲にもなり、ソロパートは北と青山の2名によるツインボーカルによる歌唱で披露されたが、画面に映っているのは北だけであった。翌1977年に起死回生を賭けてリリースした「ブルドッグ」は、硬派で攻撃的な歌詞や独特の奇抜なパフォーマンスが話題を呼びオリコンでは前年の「踊り子」を上回る売上を記録したが(最高位は40位)、7年連続出場したNHK紅白歌合戦には落選した。しかし、この曲はその後も後輩のジャニーズアイドル達によってライブやテレビで歌い継がれているほか、1987年にはフジテレビ志村けんのだいじょうぶだぁ」のオープニングコント「ご存知!じいさんばあさん」のネタの一部に使用されたり、更に1997年には富士フイルム写ルンです」のCMソングに起用され、2006年にはタレントの城咲仁によってカバーもされた。

1970年代中期頃から後進や後輩のアイドルやグループへと人気が移行していく。それまではグループや個人(青山、北)で雑誌などの人気投票の上位に位置することが多かったが、新御三家デビュー後の1973年頃から次第に上位から後退していく。比例するように雑誌記事やグラビアも減少していった。テレビにおけるメインレギュラー番組も1975年に降板、同じくコンサートやリサイタルの公演数も減り、ツアーもなくなり、ジャニーズ事務所の後輩やジュニアとの共演や二部構成の割合が増加する。

事務所の後輩であり新御三家の1人である郷ひろみが移籍した頃から、徐々に世間の関心がニューミュージック勢に比重が移っていくのと比例して、人気やレコードセールス及び所属するジャニーズ事務所の状況も低迷する。新御三家を除いた男性アイドル冬の時代に突入し、個人での活動の比重も高くなり、それぞれの芸能活動における方向性の違いも顕著になっていった。グループよりも、司会などソロのタレント活動が好調で複数のレギュラー番組を抱えたおりもの露出度が増えていき、メンバーの平均年齢も20代後半となり、1977年には青山が同事務所史上2人目の女性タレントで元ミス・ユニバース日本代表の嶋田じゅんと結婚(この際、東京で行われた披露宴の模様はテレビでも放送された)するなど、アイドルとしての活動に限界を迎えるようになっていった。

1978年7月21日に最後のシングル「THE END-思いがけず出会ったら-/夢のかけら」をリリース、1ヵ月にわたる全国ラストツアーを行い、同年8月31日、新宿の東京厚生年金会館のステージにて解散した。 この日は、副社長のメリー喜多川が初めてステージに上がり、「これから頑張っていこうね」と言いながらメンバーたちと抱き合って泣いた。 なお、この解散コンサートの模様はテレビ番組としても放送され、再放送までされている。また解散直前にはNHKの『ビッグショー』での単独ライブも放送され、初代レギュラーを務めた『レッツゴーヤング』内でも解散ライブが行われるなど、人気が下降していたとはいえ、最後まで注目を集めた続けたクループであった。解散にあたり、メンバー全員が「二度とフォーリーブスの名で再結成しない」などといった内容の念書を書かされ事務所に提出した。北と江木は解散と同時にジャニーズ事務所を退社し、翌年には青山も退社する。メンバーの中ではジャニーズ事務所在籍期間が一番長かったおりもも、1994年に退社している。

約12年の活動でシングル38枚を発表。そのシングル曲累計売上は約266万6千枚に及んだ。

グループ内での位置付け編集

北公次は、デビュー曲 オリビアの調べ 以降も作詞を手掛けるなど作詞家としての一面を持つ。また運動能力に優れ、バック転などの華麗なアクロバットを担当してステージを彩った。またステージ上でバック転を披露した初のアイドルでもある。 当時全盛を誇る渡辺プロダクションの次世代のスター育成機関であった東京音楽学院特待生で、スクールメイツのメンバーでもあったほど高い歌唱力を持つ青山孝は、歌唱面と音楽面においてのリーダー的存在。フルコーラスをソロボーカルで担当したシングルA面曲(2曲)が存在するのは彼だけである。フォーリーブスの楽曲の音楽性の高さは青山に負うところが大きい。日本大学芸術学部の学生でもあった青山は、芸能活動との兼業もありソロ活動は少なかったがグループ内では北と人気を二分した。70年代後半のコンサートでは他のメンバー達からの注文に応じてアレンジやコーラスなどの譜面の書き替えも任されていた。NHK紅白歌合戦に出場して「急げ!若者」(1974年)「ハッピー・ピープル」(1975年)を披露した際はメインの扱いであった。 名子役として芸歴の長い江木俊夫は子役の頃から周囲の百戦錬磨のスタッフすら騙されるほどの自然な演技力を身につけていたが、ジャニー喜多川の意向もありグループ内では三枚目キャラクターを担当していた。江木と同じく子役出身で最年少のおりも政夫はのんびりかつ飄々としたキャラクターと司会進行が持ち味。 おりもと江木は再結成後も含めたコンサートやグループのレギュラー番組では二人で分担して司会やMCを担当し、バラエティやコントなどでは気味の悪い怪物や道化に徹した役回りや扮装、大胆なリアクションも辞さない軽妙なコメディリリーフ部分を担っていた。 ピークが過ぎた1974年頃から各自の個性を生かした単独での活動も徐々に増えていった。

解散後編集

解散後から再結成までの期間までは、解散直後にベストアルバムが販売されたものの、翌1979年覚醒剤取締法違反による北公次の逮捕以後は、1992年8月にNHK-BS2で放送された『時代を駆ける栄光のアイドル達』を除き、当時の人気に反してメディアで振り返られる機会はほぼ皆無と言っても過言ではなかった。1981年に『さよなら日劇ウエスタンカーニバル』が開催された際、この企画の為にフォーリーブスを一時的に再結成させたいという話がジャニーズ事務所に持ちかけられたが即座に断られたこともあった。編集盤も解散直後に発売された物を除くと1997年9月21日発売の『アーリーシリーズ・ベスト・オブ・フォーリーブス』が初のベストアルバムであり、アルバムの再発もCDでは1994年5月21日発売の『若者』のみであった。

本家であるフォーリーブスによる過去の楽曲や映像の再発や放送の機会がほとんどない一方、レコードデビュー前の少年隊がテレビ番組やコンサートでフォーリーブスの代表曲であった「ブルドッグ」「踊り子」「急げ!若者」「地球はひとつ」をレパートリーとして発表。それを皮切りにジャニーズ事務所に所属する後輩のグループやジャニーズJr.によってそれらの楽曲がテレビやライブで歌われるようになった。

1980年代にも、おりもがレギュラー出演していたテレビ朝日系列象印クイズ ヒントでピント』に幾度か青山と江木が出演。またテレビ東京系列『飛び出せ釣り仲間』でも青山とおりもが共演している。

1990年頃、青山とおりもの2人で、静岡県浜松市肴町にある同じビル内に、「ステージバー・グリッター」(3F)というショーパブと、「タレント・ミュージック・スクール」(4F)という音楽学校の2つを開いた。

再結成編集

2001年2月にYahoo!で行われた「再結成してほしいグループ」のアンケートで1位を獲得したのをきっかけ[2]に、2002年1月29日、メンバー中誰よりも解散を惜しみ、節目の年の度に再結成を訴え続けていた青山の念願が叶い、再結成[3]。初日に中野サンプラザでコンサートが行われた。同年8月22日にはシングル「it's more 愛(いつも愛)」を発売。同作は山野楽器銀座本店の週間ランキングで初登場4位となった[4]

ジャニーズ側が「北と青山には敷居を跨がせない」と言っていた事もあり、再結成に向けての交渉はメリー喜多川のもとへおりもと江木が出向いて行われた。最後にメリー喜多川が「下が見ているからね。恥をかかせるようなことはしてくださんな」と許可を出し、すぐに青山と北に伝えられ、再結成に至った[5]

2006年8月27日、ソニー・ミュージックダイレクトからCD-BOX『フォーリーブス 1968-1978』が発売される。これは全シングルのA面・B面にアルバムから選んだ曲を加えた5枚組。その後ソニーミュージックショップのオーダーメイドファクトリーでオリジナル・アルバムや青山孝のソロ・アルバムなどが復刻されている。

2006年8月12日、NHK『第38回思い出のメロディー』に出演し「ブルドッグ」と「地球はひとつ」を歌唱した。北公次はバック転も披露した。久々のテレビ出演であり、特にNHKには前述の1978年の解散時に出演した『ビッグショー』以来28年ぶりである。続く2007年1月に『徹子の部屋』にも出演した。以後の全員揃っての在京局のテレビ番組への出演は、2008年2月12日放送の『2時っチャオ!』と2008年11月11日放送の『NHK歌謡コンサート』(「ブルドッグ」を歌唱)がある。また、2007年3月2日放送の『Dのゲキジョー』に江木俊夫がVTR出演した際、フォーリーブスのコンサートや舞台裏の模様も放送された。

『NHK歌謡コンサート』出演から約2ヶ月半後の2009年1月28日、青山孝史死去[6]。同年3月29日東京厚生年金会館でのコンサートを最後に活動休止[7]

2012年2月22日、北公次死去[8]

2014年以降、江木とおりもの2人で、フォーリーブス名義でのコンサートを時折行っており、2016年1月27日には大阪・新歌舞伎座で「フォーリーブス コンサート〜永遠の絆〜結成50周年記念」を行った[9]

再結成時は、北=、青山=、江木=、おりも=黄色と、イメージカラー(≒メンバーカラー)が決められていた。ただし、ジャニーズ事務所所属時は不詳。

評価編集

フォーリーブスはジャニーズ(初代ジャニーズ)に次いでジャニーズ事務所2組目のグループである。初代ジャニーズは1966年のグループサウンズブームが沸き起こった時に渡米中で、GSブームに乗り遅れた。対してフォーリーブスは日劇ウェスタンカーニバルでGSグループと積極的に共演し、デビュー曲に鈴木邦彦を迎えるなど、GSブームの波に乗ることに成功、「楽器を持たないGS」と呼称された[10]

1970年代になるとGS人気は下火になり、代わってアーティスト性を押し出したニュー・ロックや米国の対抗文化に由来したフォークが台頭する。しかしジャニーズ事務所は創業者のジャニー喜多川の活動方針から、非日常な世界を演出する舞台芸術の披露をメインに据えていたため、アーティスト性や政治性などのような個々のタレントの「自我」を前面に押し出すような楽曲を回避した。1974年のシングル「ヘイベイビー」には作曲に都倉俊一を迎え、この頃から軽快なソウルミュージックに転換し、人気の持続に成功した