今日行った近所のスーパー銭湯で、春の選抜甲子園が行われていた。

 

 

かるたを始めたのは高校からなんだけど、中学時代は実は野球部だったりもする。

 

とはいっても、新設ちょっとお勉強ができる私立中学の弱小チームだったので、

練習は週に4回、丸刈りなどもなく、ただ部活には入れたい、という理由でやっていた気がする。

 

 

甲子園を見ながら、ふと当時のことを思い出してしまった。

 

自分は練習試合でヒットを打ったことがない。

打ってもだいたいピッチャーゴロで、よくてもセカンドゴロといったところだった。

 

そんな自分でも出塁したかったので、追い込まれるまでど真ん中のストライク以外は手を出さず、フォアボールばかり狙っていた。

 

自分が所属していた3年間、チームは練習試合を含め、1勝もすることができなかった。

もちろん自分も全然うまくなれなった。

 

 

そんな当時の自分を思い出し、もし今自分が野球部の監督だったら、チームの選手だったら、どんなことができるだろう、と、ふと考える。

 

 

ただチームとしてノックをするだけじゃなく、どんなプレーがしたいか、

ホームランが打てるようになりたいとか華麗な守備がしたいとか、

とりあえず選手に聞いてみて、じゃあこんな練習をしてみよう!

 

とか、知識はまだまだ足りないまでも、きっと提案してみるんだろうな、と思う。

 

そして試合をしたら、どんなことを感じた?どこがうまくいった?いかなかった?、自分と相手を比べてみてどうだった?とか、じゃあ次あのピッチャーから打てるようになるようにはどんな練習しようか?

とか、選手に話しかけずにはいられないと思う。

 

こんな風に考えることができるようになったのも、ひとえにかるたを一生懸命やって、

ちはやふるのようにチームで全国に行きたくて、頑張ったおかげなのかな、なんて。

 

 

高校野球を見て思ったのは、この子たち、ひとつひとつのプレーに対して、次はああしようこうしようとか、考えてる選手もいるけど、そうじゃない選手もいっぱいいるんじゃないかってこと。

 

野球、っていうスポーツ自体が結構昔からあって、体育会系な部分、すでにクラブでの練習が決まり切っていて、とりあえず考えずにやれ!的な部分は結構あるんじゃないかと思ったり。

 

でも、きっとイチローはただやみくもになんか練習してないよな、一つ一つのプレーを振り返って分析して次どうしたらいいか準備して、って。

 

 

ただ、そんなことを抜きにしたって、高校野球は見ていて面白い。

何が見ていて楽しいかって、球児たちが白球を追って夢を追って、一生懸命にプレーするそのひたむきさ。

 

プロだって一生懸命にプレーしているだろうけど、「プロ」という以上、それが彼らの生きる術であって、でもだからこそそんな競争社会の中の最高峰のプレーを見られる楽しみがあって。

 

昨日のプロ野球開幕戦は1点差の試合が6試合中4試合もあって、ハラハラドキドキする試合がとても多かった。

感染対策の関係上、まだまだ空席はあるけれど、それでもお客さんがたくさん入って、野球を見ている姿にもまた感動してしまった。

 

甲子園が春夏の季節の風物詩だとしたら、プロ野球は(1年の中で半年とはいえ)僕らの日常に溶け込んだ楽しみなわけで、それが戻ってきたように感じられて、なんだかうれしくなってしまった。

 

 

プロとして、チームとして最高峰の結果を目指す。

 

 

 

 

そんな理想を思い描いて、僕は過去に挫折したことがある。

 

大学時代に職域団体戦で、チームで優勝を目指していた時の話だ。

 

始めは人数が少なかったチームが、勧誘や教育の成果もあり、

部員がどんどん昇級して、団体戦のメンバーに誰を選ぶのかが難しくなってしまった。

 

そこで自分がプロ野球を参考に取り入れたのが競争主義。

 

中学から高校にかけて中日ドラゴンズのファンで、当時の落合博満監督の考え方を参考にしたのだが・・・・・・

 

 

チームに競争主義を厳しめに取り入れた結果、チーム内の雰囲気が悪くなってしまった。

 

僕らがしなきゃいけないのはチームとしての勝利であり、仲間と争うことが目的ではない。。。。。。

この間違いは、別の形で1年後ももう一度経験することになった。

 

1度痛い目を見ても、それが何かを理解しないとまた痛い目に合う。

 

結局かるたはや高校野球など、学生スポーツは職業とは違う。

もちろんそこにつながっていくこともあるだろう。

 

プロは強者が生き残り、華々しく活躍する世界。

 

その裏には必ず敗者がいる。

 

 

結果を求めるあまり、必ず生まれてしまうメンバーになれなかった人々などを、切り捨てすぎてしまった。

 

いまこうして、指導者として思うことは、勝負の世界、かるたなら1対1で、どちらかは必ず負ける世界の中で、

勝ち負け以外の何を伝えられるだろうかということ。

 

大会で勝てたら嬉しい、だがどんな努力をしたって、勝負の世界はあくまで相対的な世界だ。

 

その中でたとえ負けることがあるとしても、かるたをすることの意味をきちんと見出し、またそれを誰かに伝えられる努力を自分がしているか。

 

 

1人の選手を指導するだけでなく、この世界全体のことを考えるならば、必ず避けて通れない事柄だ。

 

自分自身の思う 「価値」 については、

またどこかで取り上げようと思う。

 

今日はこのあたりで。

 

 

 

 

 

 

 

 

最近聞いている音楽の話。。。

 

 

 

なのだけど、昔から音楽にはまるときは、1つのアーティストの曲をひたすら聞き続けることが多い。

 

今聞いてるのは・・・・・・

 

斉藤和義。

 

おっさんなんだけど、これがカッコいいんだ。

 

特に好きで聞いてるのが、この歌。

 

 

 

 

 

 

 

とってもとっても優しい歌。

 

音楽とか、絵とか詩とか、今この瞬間にほんとに寄り添ってくれるときあるじゃないですか。

 

この歌はまさにそんな感じ。

 

彼の歌うほかの歌もやさしい歌が多いんだよね。

 

ここまでやさしいとさ、惚れちゃうじゃないですか。

 

 

そうして一度惚れちゃうと、もうその人が気になっちゃって。

 

どんな人なんだろう、考え方する人なんだろう、どんな環境で育ったんだろう、とか、

 

その音楽の生まれた源が知りたくて、もっといくとその人自体が知りたくなって。

 

 

 

 

“人はだれでも平等でいつか努力は報われる”

 

だなんて、本当に本当にきれいごとなんだけど、誰しもが認められたっていいし、人が幸せになるための努力は、いつか報われると信じたい。

 

そう、最近思ったのが、子供の幸せ、って、結構いろんな人が心配したり配慮されたりとかあるけど、

大人の幸せって、あまりにもほったらかしじゃないかなあなんて。

 

もっともっと大人が幸せになってもいいよなって。

 

そうしたら子供も、とくに思春期の子たちは希望持てると思うんだけどなー。

 

 

みんなの幸せを考えたときに、子供もおとなも高齢者もみんなはずせなくて。

 

 

そんな中、彼はぜーんぶかんがえてて。

 

ずっと好きだった、って歌あるじゃないですか

 

 

 

2011年の東日本大震災のあとに、こんな替え歌つくってたなんて最近知って。

 

 

反原発ソング。

 

こうして自分の思ってることを素直にぶつけたり、常に弱者の立場にたって物事を見る姿勢、

それを誰に媚びるでもなく、自分自身に対して素直にやってるから本当にかっこよく見えて。

 

原発に対して僕が思うことは、また今度書こうかと思うけど。

 

世の中いろんなかっこよさがあるけど、どうせ目指すなら、ひとにやさしくてじぶんにすなおで正直なそんなかっこよさを目指したいだなんて、憧れる。

また文章を書きたいな、なんて思い立ち、この場所へ戻ってきた。

 

といってもいるのは家なのだけど。

 

SNSとか、ブログとか、こうして離れているのに、場が形成されるのって面白いね。

 

脳科学者は場は脳の中にあるっていうかもしれない。

社会学者は関係性が生じるから、とか、夢想家は心の中に生まれる、とか。

 

こういうとき、全部の立場に乗り移れたらな、と思う。

 

自分が主に活動?しているのはTwitterなのだけど、そこでもかるたーでは一つのコミュニティが形成されていると言えるよね。

 

それはあくまでリアルのつながりの延長だったりするけど、ある人を経由して知らない人同士の意見が媒介されて、まったくリアルなつながりじゃないのも現実。

 

最近ある人から、君は十分影響力あるよ、インフルエンサーになれるよ、なんて言われたけど。

 

目指してみようかな、ってより、発信していく部分、表現していく部分をもっと頑張ろうかなって。

 

こうして夢想して言葉をガンガン紡ぎだすのは苦手じゃないので。

 

 

 

一つ報告を。

 

 

3月の末で大学院を中退します。

 

今後の予定は・・・未定(笑)

 

 

 

 

ただせっかくだから・・・こうしてブログなりかるたなり、ちょっと普通の人にはできないレベルで頑張ってみようかな、と思います。

 

 

あとね、いろいろと調べてみたら性格的にどうも情報工学系は向いてないみたいね(笑)

 

なんだろう・・・・・・

どうやら割と社会からはみだしてしまうタイプの人間なのかもしれない。。。ってのは、

イキリとかとそんなんじゃなくて 、そのほうが自分にとっては過ごしやすいというか。

 

 

周りから見たら、部活作ったり、自分で練習会したり、1人旅でヒッチハイクしたり、自転車乗りまわしてインカレ出てみたり・・・・・・

 

行動力のある人間て思われていて、実際よく考えればそれはそうと認めるしかないんだけど、

もっともっと、人目を気にしちゃうような繊細な部分もわりとあるんですよね。

 

ほんとは臆病なんだよね。

失敗するのがこわい、というより、人に見捨てられたり見放されたりするのとかこわいし。

 

けど最近相談したある人から、そんなに自分を否定するな、もっと自分を信じなさい、って言われて、

 

社会(自分で想像した見えない圧力) vs 自分 だなんて、勝てるわけもないのに、

それと必死に戦っちゃって、いつも疲弊して、だなんて、、、

 

ほらなにも学んでない、みたいにまた自分のことを卑下したりして。。。

 

大学入学して、いろいろいっぺんにつらいことがあって留年して、それでも周りの助けがあって卒業して、かるたでいろんな人と仲良くなったり、自転車でまた1つ軸ができたり・・・・・・

 

わりと6年間頑張ったのかな。

 

今は前を向こう、って思えるから、美しく振り返ることができるのかもしれない。

 

だってさ、うじうじ悩んだりしてるときって、まだ終わってない、って心の中では思ってるときじゃないですか?

 

 

遠い過去や別れた人との思い出が美しく感じられるのも、そんな理由からかもしれない。

 

 

 

前を向こう、自分にはまだまだできることがある、そう思えれば、過去の後悔も美しい思い出と力に変えて、生きていくことができるのかもしれない。

 

前向きになること、自分の可能性を信じること、心がけてみよう。

 

 

 

 

できたら毎日更新できるよう頑張ろう。

 

些細なことでいいので。

先月あったとあることについての反省を追加。

 

組織である問題が起こったとしよう。

その時やらなければならないことを以前の記事で書いた。

そこで

 

問題が起こってからの対応はできていたか。

起こりかけていることに気づけたか。

起こるような状態にそもそもなっていなかったか。

 

と、組織論について書いた。

しかし、これでは問題を起こした「個人」は決して救われない。

 

善意の行動の結果として起きた失敗に関して、それを組織が一定まではフォローできる仕組みを持たないと、その個人も怖気づき、集団としても何かをしにくい雰囲気になってしまうわな。

結局人は気持ちで動いてるわけだから。

 

個人的な考えとしては、感情に間違いはないと思っている。

その人の内側な心から出てきたものだもの。

そういう意味で、気持ちで動く、ってのは人をバカにして言ってるわけじゃない。

 

 

組織としての。個人としての。

 

どちらの立場も、どちらの未来も、幸せも、考えられるように。

どうも他人に与える影響力が大きいらしい。

良くも悪くも。

 

ポジティブなエネルギーを持ってれば、それを皆に伝えて皆が良くなっていくし、ネガティブなエネルギーを持っていれば場の空気を悪くしてしまうし。

 

良くも悪くも素直。

そういう、どちらにも振れうるものって、人の特性なんだろうな。

 

そして悪いときについて。

やっぱりどうしても頭で考えてしまう。

力を抜くことも大切だし、メンタルブロックを溶かしていくのも大事。

具体的にやったことは、何も考えず思い浮かんだ感情や感覚をメモに取ること。

 

人手不足、なのに低賃金。

 

どうして?低賃金で働いてくれる優秀な人がいないから。

 

優秀な人は優秀なところへ行ってしまう、それはそうだろう。

 

 

グローバル化が広がれば広がるほど階層は固定化される。

 

ようは自分とレベルの同じ人しか近くにいなくなる。

 

高校受験を考えてみてほしい。

 

例えば、一つの県で数十万単位の県と、3000万を抱える首都圏の高校。

上下の幅が狭いのはどちらの集団だろうか?

 

言わずもがな、大都会の高校に決まってる。

 

それと同じようなことが経済の中でもはっき起こってるんだろう。

 

 

 

波の激しい人生。

自分のことだが笑


どうして波があるかのちょっとした考察。



波がある人生とは。

いいときはとてもいい。
悪いときはとことん悪い笑


もちろん人生、みんながみんなある程度は波があるだろうけど、この手の人は波の周期も短いし高さも激しい笑


ということはさ、波の激しい人っていうのは物事をどんどん増幅して、加速させていく性質をもってるのかな、なんて。

このこと自体は、決して誰にも真似できるものじゃない、とても素晴らしいこと。

じゃあ何が問題って、まずは本人が疲れちゃうことだな笑
人生がどんどん(いい方向にも悪い方向にも)加速していって、急に高いところから低いところへ、その逆も然り。

もちろん他人を巻き込んでしまうことも。


で、どうしたらいいかの話なんだけど、結局は一度止まってみるしかないのよね笑

波を激しくできる人がいたら、物事はどんどんその方向に加速していける。
いい流れのときはただあなたの存在だけでどんどんいい方向へ。何も心配しなくてもうまくいく。

だからこそ、ちょっと流れが悪くなるときにいかにそれに気づけるか。
自分でそれができないときは、誰かにそっと言ってもらうようにするとか。

とにかく、悪い流れのときに何もしなければ、自然と波は穏やかな方向へ落ち着いていくのだから。


自分や物事の流れの善し悪しをいかにわかってあげられるか、まあこれが難しいのだけど。

なんのために生きるのか。

多くの人が一度や二度、もしくは何度も考えたことがあるだろう。

そしてギリシャ時代から100年,1000年先まで、いつの時代でも人はそう思い悩んでしまうのだろう。

もしも、つらくて、悩んで、このページに辿り着いた人がいたなら、大丈夫。誰しも通ってきた道だから。
あなたは一人じゃない。

ただ、ちょっとエネルギーを使うようなお話なので、疲れてるときはそっとブックマークでもしてゆっくり休んでくださいね。



では続き。


人生を楽しく生きたい。そして意味あるものにしていきたい。

だからこその、

なんのために生きるのか。
「なんのために生きてきたのか」

という悩み。

この悩みが生まれたとき、僕らの中で何かの意味が喪失してしまったのかもしれない。

そう自覚する前のあなたは、ひと思いに、自覚はしていなくても、何かに向かって突き進んでいたのかも知らない。

しかし、それはあっけなく崩れてしまった。



でももし崩れてしまったのだとしたら、きっとその時その瞬間は意味に向かって生きていたのだろう。


その根っこが崩れてしまえば、自分自身が崩れてしまうのも仕方のないことだ。

ただ、そこに意味があったこと。
意味を見出して生きていたこと。
そのことにはこれからの人生、自分でも忘れないでいたい。





追記
なんでこんなこと書いたか、って、自分がまさに意味の喪失に直面しかけてるからなんだけどさ。
また加筆していけたら。取りあえず休まなきゃかもだけどね笑





あれもこれも、、、やりたいやらなきゃ、、、

 

目標のために一生懸命になる。

 

そんなときの人の状態ってどうなってる?

 

頑張る = エネルギーを使う

 

けど、「自分が」どうする、こうすると主体的なことにしか頭は回らないから、ずーっとエネルギーを使ってばっかり。そんなんが続くと疲れちゃうのよね。

 

力が入った状態では周りの風景もよく見えない、音も聞こえない、結局目の前にあるものに気づかない。

 

力が抜けているからこそ、外からの刺激を自分の中へすんなりと受け入れることができる。

 

人間誰しも力が入ってしまう時はある、だから大事なのは、そのことに気付けるかどうか。

 

疲れてるとき、しんどいとき、エネルギーが足りないなって思えるときは、1回力を抜いて、自分が元気になれるものからエネルギーを受け取ってみること、好きな人に会う、自然に触れる、好みの音楽を聴く、等々。

 

大事なこと。エレルギーの釣り合いが取れていないと物事は廻っていかない、続いていかない。

人も。(たぶん)

 

 

もちろん、そんなふうにする余裕なんてない、って思う時もあるけど、もし終わりが見えないしんどさの中に立ちすくんでいるのなら、一度力を抜いてみたほうが視界は広くなるんじゃないかと思う。

 

というわけで力が入りすぎていたので、本日はぼーっとしてみるの巻。

 

 

 

 

大切なことのために何かを犠牲にすること、誰しもある。

 

自分は特に、1つの大切なことに関して、絶対にそれは譲れない!と頑なになり、結局他人を置き去りにすることも多かった。

 

なんでそれが起こるかって、結局は自分からの視点しか見ず、他人の立場を鑑みようとしないから。

その改善のために、皆にとってよい結果になるように、多くの人と直接話し合うことを意識したこの半年。

 

長期の、今すぐ答えを出さなきゃいけない問題じゃなければ、徐々に徐々に皆の意見を聞いて、かつより良い提案をできるように、そして行動に移せるように、少しはなってきたと思う。

 

しかし今回。

 

早急に答えを出さなくてはと焦り、頑なになり、結局、特定の人には不快な思いをさせてしまった。

 

自分に余裕がなくなり、結局もとの悪い部分が出てしまう。

 

頑なになる必要なんてない、どんなに譲れないことだとしても、そう思う今よりは皆を不快にさせない方法があるはずだ、冷静に、冷静に、素早く答えを出さなきゃいけない場面でも、常に自分を観察し、余裕を持たなければ、結局、誰かを引っ張って行こうと思ったとき、皆を幸せにできない。

 

戒めとしての。