ヴィルツ⇒エヒターナッハ (Echternach) 71.2km
1998年7月29日(水)、曇時々雨

 

 

 

 

【改訂】定年欧州自転車旅行 目次

 


居眠りしながら…
 高原地帯を走るのであるが、霧雨に見舞われて散々。山頂には第二次大戦の慰霊碑が建っている。帰国して知るのたが、ノルマンディ上陸後の連合軍と敗勢の独軍との激戦地である。全文仏語。筆記する。このあたりの眺望は素晴らしい。
 エッテルブリック、ディキルヒ等のドイツ風の地名を経て、高原を下り、美しいシュウレ川(Sure)沿いにエッテルナッハの街に入る。
 途中、居眠りしながら走っていた様だ。街に近づくと道路管理局の幽霊役人に出遭う。
「…ディキルヒからはご待望のサイクリング専用道がござったであろう?! 他国のように道の両側とはいかぬが。それより以北はご不満の通り我が国は山国である故自転車族は対象外。標識類の整備にも全く手が出ないのでござる。他国からのサイクリストにはいつも申し上げておる、我々は自動車道路の維持だけで精いっぱいと。だから危険を覚悟の上で走られたい。道路用の土地には少々余裕はあるが何分経費節減の上から舗装は必要最小限にしてござる。側線の白線も舗装の端部ギリギリ、1本のみにしてござる。
 でもディキルヒからは素晴らしかったのでは?! 我か国としては最高、最長の25キロ自転車レーン付き道路。ご満足いただけた筈。なに? 草も刈っていた? そう我が国は、長兄のオランダは立派すぎて話は別だが、隣の次兄のベルギーとは違って時々草刈り機を動員して道路整備に心掛けてござる。ン? 不思議とガラス片も少なかったと? ベルギーは無茶苦茶多かった? そうかも知れぬ。小国とは言え、末弟の我がルクセンブルグは道路面の清掃には心掛けてござる。ゴミも少なかったでござろう。サイクリストにとっての強敵はパンクを引き起こすガラス片、スチールコード片と十分心得てござる。これまでベルギーで難儀され、早くドイツへ脱出したいとのお考えのようだが、ここでわが国の後半の完璧な道で全て水に流してもらえぬかな? ムリだと? ベルギーの8日間400キロ、ルクセンブルグの2日間110キロの計510キロの難儀をわずか25キロでは引き換えられぬと? さもあろう、御意、御意。しかしこの川沿いには何個所にも素晴らしいキャンプ場も設けてござる。どうかな、日本のサイクリング道にもこれ以上の出来栄えの所がござろうかな? ワッハッハッハッ…」
 と呵呵大笑されて目が覚める。そしてバスターミナルが目に入る。
 街は観光客で賑わう。小雨混じりで天気は悪いが人人人でいっぱい。YHはその繁華街に立つ。マルメディのYHで一緒だった車旅行の老夫婦に再会する。アントワープの人で「盗難、その他事故に遭わなかった? それは良かった。アントワープはベルギーで最悪の治安状態の街だ…」と。

 ルクセンブルグは小国である。首都も同名のルクセンブルグである。
 1999年4月3日付朝日新聞の天声人語はこの小国を紹介している。抜書きすると、
「…独、仏、白に囲まれて面積は神奈川県より少し広いくらい。そこに42万余りの人々が住む。金融と鉄鋼が産業の中心。▼…長く小国の悲哀を味わった。欧州の情勢が変わるたびに、大国の丁手から手へ子猫のようにやりとりされる。…▼小国にも意地がある。「あるがままの私達でいたい」と、首都の古い建物のバルコニーにゲルマン系の独自の言葉で書きつけてある…▼輪番でEU議長国の役がまわってくる。首脳会議を主催し、欧州の主張を取りまとめる。東洋の格言に、鶏ロとなるも牛後となるなかれともあるが、ルクセンブルグという鶏は、ときにEUという大きな牛を従える▼ 小学1年でドイツ語を、2年でフランス語を、中学から英語を習い始める。人口が小さくて、自前の総合大学は持てない。若者達は欧米諸国に留学し、それを支援する奨学金が国から出る…」
 元首のジャン大公夫妻の訪日を歓迎しての紹介の言葉である。

 

 

ヴィルツのYH前にて すごい渓谷街である

定年欧州自転車旅行 1998.07.29(水) 9:35 小雨

 

 

舗装道路で 中央線もまだ引かれていない未完成道路が開放されている

定年欧州自転車旅行 1998.07.29(水) 10:15

 

 

峠の頂上(?)

定年欧州自転車旅行 1998.07.29(水) 11:40 小雨