エッケルンフェルデ⇒キール (kiel) 52.3km
1998年7月3日(金) 曇、時々晴、強風  7月4日(土) 曇 連泊滞在

 

 

【改訂】定年欧州自転車旅行 目次

 


ナチスドイツが誇った巨艦Uボート 臨海に展示されている

敗戦直前の最新鋭艦 以前ミュンヘンで見たUボートとは比較にならぬくらい巨艦だ

定年欧州自転車旅行 1998.07.04 (土) 13:00



Uボート及び海軍記念館の見学
 キール市中から北方の、バルト海方面の右岸沿いに数キロの所、ラボ工(Laboe)と言う名の小村に記念館がある。
 この記念館は立派な建物で且つ館内展示物も素晴らしい。第一次大戦以降を中心とするドイツ海軍の各種戦艦の歴史をまとめている。難は説明文が全て独語文のみ。
 あまりの立派さに考える。同じ第二次世界大戦の敗戦国ながら、日本にこの種の記念館があるのであろうかと。日本にも世界に誇る自衛の近代国家の歴史がある。列強先進国による帝国主義、植民地拡大主義政策で、アジア諸国が西洋諸国の武力に屈して領土の割譲、租借、不平等条約を強いられてきたのに対し、日本は日清、日露戦争で日本の主権を展開し西洋の列強諸国に伍して劣らずと護国思想を堅持して対処した。海軍を中心にした軍事力で、南下政策に注力するロシアの野望をくいとめている。残念なのはその後年、中国を中心とするアジア諸国へ進軍し、一方的な東洋共栄思想、自己繁栄主義で太平洋戦争へと突入していったことである。
 記念館はどんなものでもあればいいと言うわけでは決してない。が、海上国家日本の過去の過ちを反省し、栄光を誇りつつ今後のあり方を考えさせるモニュメントが現在の日本にあるのであろうか。日露戦争時の旗艦三笠は横浜の白浜海岸に固定保存されていると聞く。日の丸の国旗一つの国制化にも世論がまとまらないくらいであるからこれ以上望む方が無理かもしれぬ。しかしである。
 作家阿川弘之氏の随筆集に『故園黄葉』(講談社、99年2月刊)なる名著がある。その中に「半藤一利『戦士の遺書』解説」と題する節がある。その中の一文、やや長いが、佳文ゆえ以下に抄出させていただく。
〈…戦後、歴史教育の基本方針も亦一変し、軍事問題、特に旧日本陸海軍に関する万般は、触れず教えずがいつか慣行になってしまった。国家の犯した悪を批判するにも、悪の実態を知る必要があるだろうといふやうな常識論は却けられて、ただ「臭い物に蓋」で通す教育が、以来半世紀以上続いている。「悪」をつついて「善」の側面が出て来るのを危惧したマッカーサーの占領政策がその発端かもしれないが、日本独立後もこれは変わらなかった。教科書編纂、百科事典編纂の過程で、やはり同じ方針か採用された。試みに、昭和41年平凡社刊「国民百科事典」全8巻の索引を繰ってみれば、そのことがよく分る。小学生でも知っている世界最大の戦艦「大和」「武蔵」の名前が出ていない。日本海海戦の東郷連合艦隊旗艦「三笠」も載っていない。巻数がちがふとは言え、「エンサイクロペディア・ブリタニカ」が、「大和」「武蔵」はもとより「陸奥」「長門」まで、日本の戦艦として明記しているのと、甚だ対照的で、「国民百科」編纂の学者たちは、そんなものを国民に知らせる必要無しと考えていたのであろう。
 一事が万事、若い世代の殆どが、日本の近代史現代史の重要な部分に目かくしをされて、こんにちに至っている。色んな面で、「日本人の常識は世界の非常識」の趣を呈するのは自然の成り行きであった。 …〉後略
 Uボート1隻がこの記念館の前の海浜に据えられていて、これも一般有料公開されている。戦争末期の最新型のものとか。多数の観光客が艦内を牛歩で見学するので息苦しいくらい。原動はディーゼルエンジンで魚雷は四発装備式。以前ミュンヒェンでもUボートを見学したことがあるが、それはもっと小型の痩身艦であった。
 ここラボ工は砂浜の浅瀬地帯でとても船舶の港には適していそうにない。そこで、一体このキール湾のどこにかつての軍港、特にUボートの発進基地があったのか、2、3人の現地人に尋ねるが知らないとの返事ばかり。残念なり。戦中、日本海軍はこのUボートの技術供与を受けるべく日本潜水艦を遥々東洋の遠地からここキールに派遣してきている。このことは吉村昭氏の諸著作に詳しく描かれている。

 

 

ドイツ海軍記念館の屋上展望台よりキール港を望む

定年欧州自転車旅行 1998.07.04 (土) 11:40 霧雨

 

 

 

 

(1998年)