巡礼を楽しむ レキササイズ season 4 -7ページ目

巡礼を楽しむ レキササイズ season 4

歴史散策の楽しみのひとつ。霊場巡りをお気楽に楽しんでいます。

レキササイズって、造語です。
歴史散策をしながらダイエットをしようというところから
レキシ+エキササイズの意味合いで名づけました。
ダイエットもそろそろ頑張ります。

ノーヒント、まったくの偶然で見つけたのがこの碑です。『おこない』がよかったからでしょう!頼朝の妾で、彼女の兄は比企能員。彼は北条時政の屋敷で暗殺にあい、その一族は抹殺。丹後局のこどもは、元服して惟宗忠久と名のったとか・・・成長して島津三郎と名のり、九州の大名となったとか・・・
こんな諸説を信じたり、騙されたりするのも、歴史散策の楽しみです。自分の頭の中に組み込まれている中世の物語としてしまっておきます。

巡礼を楽しむ レキササイズ season 4-丹後局

碑文
源頼朝ノ愛妾丹後局ノ事蹟ヨリ起リシモノナリ 丹後局ハ頼朝の寵愛厚ク妊娠ノ身ト成リ夫人の政子ノ嫉妬ヲ碎ケテ当地ニ至リ伊勢宮ノ瑞籠ニ隠レテ憩フ處ニシテ男子出生又丹後局安産ノ蹟ヨリ丹後山ト称セリ又丹後局ノ墓ト言伝エテルル塚有リテ局終焉ノ地ト思ハルル処ナリ爾来幾星霜ヲ経テ当地ハ急激ナ発展ヲ来シ団地造成開発ナルルニ当リ塚ヲ改葬シ永ク古蹟ヲ遺スト共ニ局ノ霊ヲ慰ムル為共有者一同供養塔ヲ建立スル者也
2007年6月23日 訪問


片瀬海岸のボランティア清掃に参加した帰りに寄りました。清掃が終わったら、同志とビールでもと思っていたのですが、10時に清掃が終わってしまったので、解散しました。
日蓮さんでおなじみのお寺です。いろいろな小説やドラマで見かける日蓮法難の場となっています。パンフレットにその時の様子が書かれてるので、転記します。
江ノ電がお寺の前の道路を走っています。車と電車が共存する場所は珍しくなりましたが、江ノ電は本当に絵になります。我が家までは小田急の方が安いのですが、ついつい江ノ電を選んでしまいます。

巡礼を楽しむ レキササイズ season 4-龍口寺

パンフレット
龍口寺縁起
鎌倉時代後期、日本は内乱や蒙古襲来の脅威が広がり、また飢饉や疫病の蔓延など、まさに地獄の様相の悲惨な状況にあり、それらを憂えた日蓮聖人は「立正安国論」を著し幕府に奏上し、法華経の思想に基づく国家の安寧と民衆の救済を提起しました。ところが幕府はこれを政策への中傷と受け止め「貞永式目」の「悪口の咎」に当たると解釈し、文永八年(一二七二)九月十二日、鎌倉松葉谷の草庵で説法中の日蓮聖人を捕らえ、市中引回しの上、この龍ノ口の刑場に連行した。当時の龍ノ口は罪人を斬首する刑場でした。ところが日蓮聖人の場合、幕閣による評定(裁判)を経ずに刑場に連行したため幕閣からも異議が出され、夜中にもかかわらず評定が開かれ、処刑中止を求める意見が多く、幕府は夜半にいたり龍ノ口の刑場へ処刑中止の使者を送りました。その間にも刑場では評定の決定を待ちかねて、十三日の子丑の刻(午前二時前後)に、日蓮聖人を土牢から引き出し、敷皮石(座布団状の石に皮を敷く)に座らせ、斬首の準備を整えました。
この時、日蓮聖人は「法華経の行者として法華経に命を捧げることは、むしろ喜びである」と、泰然自若としてお題目を唱え首の座につかれたといわれています。ところがこの時「江ノ島の方より満月のような光りものが飛び来たって首斬り役人は目がくらみ、畏れおののき倒れ」(日蓮聖人のお手紙)という混乱の中に幕府の使者が到着し、斬首の刑は中止となりましたが、この龍ノ口刑場で処刑中止となったのは日蓮聖人以外には知られておらず、誠に尊い出来事と言えます。
聖人はその日のうちに依智の本間重連の許に預けられ、その後、幕府の面目もあり、佐渡島へ流罪と決まり、あしかけ三年間、佐渡島に居られましたが、龍ノ口の法難を経た聖人は法華経に説かれる「上行菩薩の再誕・法華経の行者」としての信念を一層深められ、佐渡島に於て「大曼荼羅」を顕わされ「開目抄」「観心本尊抄」など重要な著述をされ、龍口法難が日蓮聖人にとって大変に重要な意味をもっていることが分かります。
また龍ノロの刑場までお供して共に死を覚悟したご信者の四条金吾への手紙には「龍ノ口に日蓮が命をとどめおくことは法華経の御故なれば、寂光土ともいうべきか」と、この龍ノロの地こそ仏の常に居られる浄土であると述べられています。
日蓮聖人が池上の地でご入滅の後、現在、池上本門寺に安置されている日蓮聖人の御尊像を彫刻された直弟子で中老僧の日法聖人が、延元二年(一三三七)に此の龍ノロに一堂を建立し、自作の日蓮聖人像と首の座の敷皮石を安置したのがこの寺の始まりで「寂光山龍口寺」と称し、日蓮聖人像を安置した祖師堂を「敷皮堂」とよび、連綿として法灯を継承し、日蓮天聖人の四大法難(松葉谷・伊豆・小松原・龍ノ口)中でも屈指の霊跡とされ、日蓮宗霊跡本山中随一の霊場として尊崇され今日に至っています。
龍口寺では毎年九月十一日・十二日・十三日を「龍口法難会」と定めて厳粛かつ盛大に大法要が営まれています。特に十二日の夕刻から夜にかけ近在講中の人たちによる万灯が奉納され、門前には夜店も立ち並び大変な賑わいを見せます。
また日蓮聖人が龍ノロに運行される途中「桟敷の尼」が鍋蓋にのせた黒胡麻の牡丹餅をご供養した故事に因み、十二日の朝から講中の人々がお題目に合わせて餅をつき、手作りした黒胡麻牡丹餅をご宝前に供え、その牡丹餅を小さな袋に入れて、十二日午後六時と十三日午前零時の法要の後、堂内の大勢の人たちに行き渡るほど撒かれますが、「難除けの牡丹餅」と言って、これを食べれば年中無難、さまざまな災難を免れる効験があるとされ今に伝わっています。
2012年5月27日 訪問

まだ神社仏閣巡りを始めたころは、寺と神社の違いは理解していましたが、地蔵様、庚申塚、二十六夜塔、地神塔とか、いったい何だろうとさえも考えないで、見つけるたびに写真を撮っていました。改めて地蔵尊様として、整理していると、そこの案内板や碑で、その町の歴史を想像させていただき、ノスタルジックな気持ちが湧くことで、癒される気がします。
ここへは、お寺巡りをしている途中に立ち寄りました。

巡礼を楽しむ レキササイズ season 4-港北大熊町地蔵尊

記念碑
大熊町民の信仰を集めている当大熊地蔵尊は石仏捨体からなり、それぞれに天和、享保、明和等の年号が刻まれており建立年号不明のものもある。明治四十二年に数か所にあった地蔵尊を集めて新築の御堂に安置し毎年九月一日を縁日としてきた。安産、子育て、イボ取り地蔵として霊験あらたかである。昭和三十六年より八月二十四日を縁日と定め、その日は町内の当番の人々によって湯茶の接待があり、参詣の人々には御礼と御供物が配布され、町内の人々をはじめ他所からの参詣の人々も多い。
今般、信者中山考司氏は、当地蔵尊が道路の中心に存し、縁日のときの交通事故などを憂慮され、中山氏所有の当地三十八平方米を地蔵尊に寄付せられたその善行に報いるべく地蔵尊講中は、地蔵尊の移動、堂宇の新築を計画し、町内の人々に呼びかけたところ三百四十九名の人々より浄財が寄せられ、それをもって昭和五十七年(一九八二年)七月、地蔵尊の移動及び堂宇の新築が完成した。
この事を永く記念するため、この碑を建立するものである。
昭和五十七年八月二十四日 大熊地蔵尊講中


子供を生むのも、育てるのも大変な時代があったこと、イボに苦しんでも治療法がなかった頃、お地蔵様にすがることが必要だったんだろうと・・・。
2006年6月4日 訪問

京浜急行に相棒のチャリとともに乗って、横浜は金沢区を散策しようと富岡に行ったときにお会いしました。国道16号沿いの車通りの激しいところにあったのですが、見るからに、このあたり一帯の地蔵様、庚申塚をかき集めて作られた印象の場所でした。こちらからすれば、まとめて見ることができるのですが、やはり、昔からあるべきところにあるほうが趣があります。
これも世の流れです。16号線も、ワタシの若かりし頃とえらい変わりようです。彼らは何年もそれを見てきているのでしょう。

巡礼を楽しむ レキササイズ season 4-金富岡東六地蔵

厄除け地蔵縁起
この六体地蔵菩薩は今から約六十年程前現在地の前の国道西側に安置されておった。
明治の初め頃金澤村に疫病が大流行した時この地蔵尊が富岡の南端に位置しておったので富岡村のみ疫病から護られ患者は皆無であったことから信仰する者数多かった明治丗一年県道のちに国道として道路改修更に昭和丗一年の道路大改修又周辺の宅地造成等とその度に移設され現在に及んでいる。
昭和丗八年戦没者及び交通事故死者の霊を弔う念願のもとに、花田工業・野本建設両社長の寄進に依り銅屋根造りの建造物の完成を見たが毎年春期に地元有志の手に依り大祭が修行されている。
 昭和六十一年 吉日
六地蔵やくよけ地蔵のあらたなる
めぐみいただき町をあかるく
なむじぞうそん なむじぞうそん

2007年1月4日 訪問

舟に乗っていますが、岩舟地蔵とは違うそうです。
このあたり、後北条が支配地を広げていくときの戦いの場であったようです。
小説で読んだ北条早雲は、なかなかの知恵もので、小田原城を落とした後は、すごい勢いで支配地を広げていった。この近くの大庭城は、平安末期の大庭景親の城かと思っていたら、そうではなかったようです。北条早雲の性格も見えるような地蔵様でした。

巡礼を楽しむ レキササイズ season 4-藤沢大庭舟地蔵

案内板
舟地蔵
地蔵尊の台座が舟型になっていることから船地蔵と呼ばれています。その昔、北条早雲が大庭城を攻めたとき付近一帯は沼地で、なかなか攻め入ることができませんでした、北条方は沼地近くに住む老婆から引地川の堤を切れば沼は干上ろことを聞き出しましたが、秘密漏れを防ぐため老婆を斬り殺してしまいました。その結果、北条方は、ようやく城を攻め落すことができたそうです。舟地蔵は、殺された老婆を供養するため建てられたという言い伝えがあります。
 表郷町内会
2012年4月29日 訪問