川島小学校という学校の発祥の地だそうです。
寺小屋って言葉が、そういえばありました。
ワタシの世代ですら、聞いたことぐらいしかない言葉です。
当時のお寺の役割を改めて感じます。
帷子川の近く、明るい境内、きれいな境内という印象です。
湧き水がありました。
横浜市保土ヶ谷区
2006年7月15日 訪問
浅草寺でご朱印をいただいたときに、住職さんに、ご朱印帳に挟んでいただいた紙に書いてあったご朱印に関することです。
ご朱印のいただき方です。
振り返って自分の態度の良し悪しを考えるというより、そもそも論として、知っておいた方がいいんだと解釈しました。
「ご朱印」について
この頃、神社仏閣に参拝され「ご朱印」を受ける方が大変多くなっております。
これは「納経」とも呼ばれ、その由来は参詣者がお経を書写して寺社に「お納め」することに始まっております。ですから昔は納経帳の右肩の所に「奉納大乗経典」と書かれておりました。現在は「奉拝」という文字となっております。
いつの頃か、この作法が簡略化されて、お写経を納めなくとも参詣の証しとして「ご判」を頂くことになって今日に及んでおります。そして各霊場を巡拝する「巡礼」信仰と結びついて盛んになリました。これは観音三十三札所あるいは四国八十八ヶ所を巡礼し、その全部の霊場から「ご判」を頂くと、その功徳によって地獄に堕ちないばかりか、所願も成就するという古来の信仰に基づいているものです。
このような本義から申しますと、お経も書写せず、あるいはお堂に入ってお参リもしないで、ただご朱印だけを集めて歩くということでは、本来の尊い意義を無視してしまうことになり、あるべき姿から離れてしまいます。少なくとも『般若心経』一巻または『観音経』偈文などを書写なさるか、ご宝前で読誦されるなどして、その後に「ご朱印」をお受けになるようにして頂きたいものです。
金龍山 浅草寺
瀬谷の上和田とかかれた物もありますが、案内板は大和市となっています。
住所は大和市上和田一一六八番地。
中原街道と環状四号線の交差点を、中原街道を進み、坂を上りきったところの左のわき道に入ってすぐです。
境川の周りにあるので、この川の恩恵にあずかっている土地柄なのだと思います。
入り口の横には、集められてきたような庚申塚があります。
このあたりも子供のころ、かぶと虫を追いかけてやってきたような記憶もあります。
今や、雑木林の気配は、神社の周りだけとなっています。
この神社も源義朝を祀っています。
案内板
由緒
宝暦十四年三月桃国天皇徳川九代将軍家重の代、名主渡辺兵左衛門・小川清右衛門この地に宮を建立、佐馬頭源義朝の霊を勧請し村民の精神道場となるや漸次庶民崇敬の的となり、文化三年四月三日上和田信法寺十四世住職憧与上人、氏子の賛同を得て五穀豊饒の祈願をなしたるや、其の御神徳の偉大さに武家・一般庶民に深き感銘を与う。
以来五穀豊饒はもとより家内安全の守護神として広く世に伝わり崇敬者多し。
尚、境内社として天照皇大神、神武天皇、須佐之男命、三神を奉斎し国土安穏氏子崇敬者の安泰(疫病・痘癒・厄除)守護を念ずる参詣者今尚多し。
やはり『サバ』とは『義朝(佐馬)』のことなのか、この神社でもそう思わせられます。
義朝は、保元の乱で、父為義を殺すことになり、次の平治の乱で義朝が家臣に殺されています。
3月4日の大河ドラマでは、三浦義明と出会っていましたが、その娘との間に義平が生まれます。
義平と木曽源氏との係わり合いとか、頼朝の挙兵までにいろいろなドラマが楽しめます。
大和市上和田 2007年6月2日 訪問
一番北にあるサバ神社です。
広い境内です。子供たちがあそぶにはかっこうの場所です。
45年ほど前、ワタシもここで遊んだことがあります。
祀っているのは、源義朝、頼朝のおとうさんです。
現在、大河ドラマでは義朝は関東に出張中のところです。
このあたりにサバ神社が多いのは、そのころ、このあたりに長期間いたからかもしれません。
案内板
佐馬社と梵鐘
その昔、境川流域の村々では、疫病が流行すると境川東西に点在する神社をまわり、厄除けをする民族信仰が盛んでした。(七サバ参り)
当佐馬社は、「七サバ神社」と呼ばれるうちの一つであり、祭神は佐馬頭源義朝です。
隣接の真言宗西福寺が、この佐馬社の別当職であったので、当時の神仏混淆の姿が今日に残り、神社の境内にある吊鐘は区内唯一のもので、厄除け、虫除けに鐘をついて祈願したとのことです。
梵鐘は江戸時代の文久元年(1861年)に鋳造されましたが、太平洋戦争の際供出したため、昭和32年(1957年)氏子の協力によって新たに現在の鐘がつくられました。
平成10年 3月 瀬谷区役所
2008年7月5日 訪問