数年前、桜の散る参道を通り過ぎ境内に入りました。最初に目に付いたのは枝垂桜をカーテンにした鐘楼と大きな日蓮の像でした。やはり目立つだけあって、どちらについても案内板に説明がかいてありました。
案内板
この寺は縁起によると、はじめ孝徳天皇の白雉3年(652)に明光比丘尼(ひくに)が立てた庵で明光が亡くなり、その後、大同年間(806~810)に辨通(べんつう)が天台宗福昌山明光寺と称して寺にしたといわれています。
弘安5年(1282)9月17日に日蓮上人がここに一泊し、その寺の住職文教は、教化をうけて改宗し、寺名も蓮昌山妙光寺と改め、日蓮上人を開山とし、自らは二世となりました。
宝徳4年(1452)、相州瀬谷郷に住んでいた山田伊賀入道経光が大壇那となって、正中2年(1325)鋳造された武州恩田(緑区恩田町)の萬年寺の梵鐘を寄進しました。この梵鐘は、中世の関東地方で活躍した鋳物師の物部氏の一人守光の作で、神奈川県の重要文化財に指定されています。
境内には、明光比丘尼の開基堂、江戸時代、瀬谷村に釆地を賜った鷹匠長田白政の墓碑があります。
(社)横浜国際観光協会
横浜市教育委員会文化財課
平成2年3月
2006年4月8日 訪問
明光比丘尼:
瀬谷区の民話では明光比丘尼がある日居なくなり、庵の中に墨染めの衣をかけた大きな石があったということで、明光比丘尼が石になったと悟り、この石をお詣りするようになったということです。
当時、お茶を薬として飲んでいたので、お茶をお供えするそうです。
この石は、長津田大石神社のご神体、大和市深見要石とともに三奇石といわれるそうです。
日蓮:
言わずもがなの人物ですが、気になったのは彼は1282年10月に亡くなっています。その年の9月17日にここに泊って、そのとき教化、改宗となっているということは、このお寺が、生前の日蓮の影響で改宗した最後のお寺なのかもしれません。
9月18日、武蔵国池上宗仲邸(現在の本行寺:大田区)へ到着していることから、その日のうちにここから大田区まで行ったことになります。かなりの距離があります。
想像するに、このお寺から八王子街道に出て、中原街道にはいったのだと思います。
1日中歩き続けたのでしょう。
長田白政(おさだあきまさ):
源義朝を尾張知多半島・野間で抹殺した長田忠致(おさだただむね)の家系のようです。
この近辺には義朝公を祀ったサバ神社がいくつかあり、何らかの関係があるのかもしれません。
パンフレットより
孝徳天皇の白雉3年(652年)明光禅尼の開基。弘安5年(1282年)9月17日、日蓮大聖人の御一宿を賜り、時の住持が大聖人の教化を受けて改宗する。これより蓮昌山妙光寺となり今日に至る。