鎌倉の神社が網羅されています。当然といえば当然ですが、最初の紹介は鎌倉八幡宮ということに。
けっこう広範囲をカバーしているので、頼りになる本です。
最初に訪問したのは2006年1月28日でした。新幹線と平行して走る大通りに沿いにありました。この大通りはワタシの自動車での通勤経路です。毎日のように通る道沿いに妙蓮寺があります。
妙蓮寺は地頭宅間氏の命により名主・和田四郎左衛門が建立したそうです。
石段を登り門をくぐると正面に本堂があります。門の右側には『横浜の名木古木』のイヌマキの大木があります。そしてペットの納骨堂と碑があります。我が家の番犬ラッキーもここに眠っています。
気になるのは『和田』姓の墓の多いこと。調べると和田義盛の碑があるとのことで、再度訪問して、碑を探しました。なかなか見つけられなかったので、お寺の方に聞くことにしました。ご丁寧に案内していただいたところ、山門をくぐってすぐ右側にあった石柱がそれでした。
石碑の後ろの塔婆には『和田義盛公位仏●増進追善●』とありました。
あ~、間違いない。
(●は読めませんでした:以下も)
石碑の横に彫られていたもの
人皇五十代桓武天皇ヨリ平高望王九代ノ孫三浦大輔義明ノ息義宗ハ和田ノ祖先ニシテ頼朝公ニ寵セラレ侍所ノ別當職ニ任ジ嗣子小太郎義盛モ次デ侍所ノ別當職ニ任セラレタリシガ建暦二年五月北條氏ノ為鎌倉ニ戦死又時ニ六十七歳今ヲ去ル七百十五年八男義國ハ父兄戦死ノ時未ダ幼若ナル故ヲ以テ伊賀國ヘ引籠リ其息義久ハ相州愛甲郡甬田ノ郷ニ住ス或夜浅間明神ノ霊夢ニ依リ天文八年四月善部谷戸ヘ住●●三百八十八年ナリ實ニ義久氏ハ當所一門之初祖トス
平安末期の三浦一族のドンは三浦大介義明で、その嫡子は三浦義宗。義宗は戦いで若くして戦死、その息子が和田義盛。和田義盛は北条との鎌倉の市街戦で戦死。・・・とここまでは知っていたのですが、彼の八男の義久が愛甲郡に住んでいたのが霊夢から、ここ旭区善部へ移り住んだと書かれているようですが、本やネットでも、このことは見たり聞いたりしたことはありませんでした。自分の足で行くローカル散策で、知ることができたのは、うれしい気分となります。
和田義盛の物語を巡る場所はたくさんあります。
彼のたくましい生き方を追いかけるのは、けっこうパワーが必要です。
まだ神社のことなどよく知らなかった頃の訪問です。
鳥居があって、堂のような建物があって、手を洗うところがあって、そうそう狛犬がいて・・
・。そんなイメージをもって、巡っていました。
ここの神社は、けっこう寂しいところにあります。まわりに住宅もなく、木が茂り、雑草が無駄毛のように生えていて・・・。
人っ気がないので、ほんとうに寂しいです。建物の色が鮮やかなえび茶色なので、目立っていて、存在感はありました。
案内板がなかったので、義朝を祀っているのかは確認できませんでした。
この近くに相鉄いずみの線のゆめが丘の駅があります。そこも人がすくなくさみしい駅です。
いずれ、夢が覚めたらにぎやかな町になると思いますが、この神社はそのままでいいような気がしました。
2006年4月15日 訪問
横浜の七福神巡り、港北七福神巡りです。
こちらは、まだ全部巡っていませんので、今年の楽しみのひとつです。
2006年9月30日 最初の訪問
この日、残暑の中、ダイエットに最適な気温と、アップダウンの多い港北区の神社仏閣巡りで訪問しています。
菊名から横浜方面に向かう道を進みました。どっちに行っても上り坂なので家に近づくほうを選び進んで行き、大きく曲がりながら登っていく坂の途中に見つけました。
横浜七福神巡りの毘沙門天。境内に毘沙門天がありました。立て札には日本三大毘沙門天のひとつとありました。作者を見れば、日本の三本指というのもうなずけます。
入った感じより広く感じる境内です。残暑の中、涼しい感じで散策できました。季節外れに来たものですから、残念ながら御開帳のタイミングは逸しています。
案内板
蓮勝寺毘沙門天王
横浜七福神の蓮勝寺毘沙門天王は、仏師運慶作の「日本三毘沙門」と伝えられ、また巷間に「左キッチョの毘沙門天」と称されています。
この毘沙門天王は、六百有余年前の昔から諸々の厄難を除き、財を豊かならしめ、霊験のあらたかな、厄除け、開運の守り神として信仰されています。
御開扉の日
正月松の内七日間(初詣)
一月、五月、九月の初寅の日(縁日)
浄土宗 菊名山蓮勝寺