「(首相が示した)山階宮家と梨本宮家の養子の件もあり、旧皇室典範の制定過程で、皇族間の養子縁組は皇室内部の秩序の混乱を引き起こすとして問題視された。また、華頂宮家の養子の件は形式的なもので、天皇との血筋の遠さは問題にならなかった。それらの事情を説明せず、親等の数字が大きいからといって国会審議の場で持ち出すことは、歴史への敬意を欠いた行為だ」(久礼旦雄・京都産業大教授) 


 室町時代に伏見宮家が創立されて以来、江戸〜明治に至るまで、当時の宮家=世襲親王家の当主となる皇子(王)は天皇の猶子(後継者とならない養子)として、“親王宣下”を受けることが慣例となっていました。高市総理が出した例は、いずれもその慣習に倣ったものであり、教授の指摘される通り、今回の改正と比較すること自体が誤りだと言えます。 

また、この事例が問題視されて皇室典範に養子が禁じられ、以後の当主は王(または女王)とされた上に、後継者がいない場合は断絶することになりました。

 これらの事実を踏まえていなかったとすれば、明らかに高市総理とその周辺の人たちの“理解力不足”と言わざるを得ません。恐らく、質問通告を受けて慌てて事例を調べたものか、ろくな説明も受けずに誰かから聞いていた話をそのまま口にしたのでしょうが、軽率と言うより、敬意を欠いた軽薄な発言だといえます。 

ちなみに明治天皇の猶子となった華頂宮家の当主は、1883年に8歳で“親王宣下”を受け、同日に亡くなりました。当時は皇室典範制定前だったので、実家である伏見宮家から養子が入り名跡を継ぎましたが、その子の代に断絶しています。 


 【皇室典範の改正で、養子の対象となる旧11宮家の旧皇族と、現在の天皇陛下は男系で36~38親等離れ、「ほとんど他人ではないか」との指摘が相次ぐ。高市早苗首相は国会で、「明治天皇の御代に、32親等の隔たりがある養子の例がある」と反論したが、皇室内の養子縁組の上、①11年後に縁組を解消した例と、②養子となった当日に死亡したケースだった。皇室制度史の研究者は「背景を踏まえず、数字だけを紹介して不適切」と指摘する。

  …宮内庁書陵部によると、(高市総理の答弁に)該当する養子縁組は、当時頻繁に行われていた皇族間のものと、皇族男子が明治天皇と形式的な親子関係を結んだものの計2件あるという。

  一つ目は、1874年に梨本宮家の継承のため、山階宮家の長男を養子に迎えた例だ。ただ、他の宮家の後継者変更で実家の後継ぎがいなくなり、養子となった長男は11年後に山階宮家に復籍した。

  もう一つは、明治維新に伴い創設された華頂宮家の「王」である長男が、明治天皇の養子として「親王宣下」を受けた例だ。天皇と近い「親王」のみが宮家を継げるとされていたこともあり、称号を与えるために養子となったとみられる。ただ、この長男は病気がちで親王宣下と同日に死亡した。

  当時、皇室内では同様の養子縁組が頻繁に行われ、宮家の増加で財政が逼迫したり、混乱も生じたりしたことから、1889年に制定された「旧皇室典範」では皇室の範囲を限定し、養子縁組を禁止した。

  皇室制度史を研究する京都産業大の久礼旦雄教授は「(首相が示した例は)いずれも、皇室内部での養子縁組だ。今回の法改正は、すでに皇室を離れた旧宮家の子孫を養子として皇族にするもので、比較例にならない」と指摘の上、「山階宮家と梨本宮家の養子の件もあり、旧皇室典範の制定過程で、皇族間の養子縁組は皇室内部の秩序の混乱を引き起こすとして問題視された。また、華頂宮家の養子の件は形式的なもので、天皇との血筋の遠さは問題にならなかった。それらの事情を説明せず、親等の数字が大きいからといって国会審議の場で持ち出すことは、歴史への敬意を欠いた行為だ」と話す…】(本文より)


高市首相が示した「32親等離れた養子」 当日死亡と縁組解消の事例https://www.asahi.com/articles/ASV7Q30PDV7QUTIL01BM.html