おはようございます!
戦国時代の幕開けと終焉っていつだったのでしょうか。
本日のクイズはそんな問題でした。
まずは、本日の【ケータイ 国盗り合戦】のクイズです。
戦国の世の始まりとされる「応仁の乱」が起こった年と、終わりとされる「大坂夏の陣」が起こった年は、100年以上離れている。○か×か?
1.○
2.×
正解は「1.○」です。
正解率は80%でした。
【解説】
「戦国時代の始まり・終わりの線引きには諸説ありますが、一般に戦国の世の始まりとされる応仁の乱は1467年に起こりました。一方、戦国の世の終焉とされる大坂夏の陣が起こったのは1615年で、この間は150年ほど離れています。」
今年は応仁の乱から550年という節目で、応仁の乱に関する書籍が本屋さんでよく見かけました。
中でも呉座勇一さんの「応仁の乱」は静かなブームとなり大ヒットとなりました。
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歴史好き、京都出身の私でも応仁の乱には全く興味が持てず、つい最近まで関連書籍は全てスルー

一体何だったのかが未だによくわからないんですよね。
元々のきっかけは畠山家の家督争いに端を発しています。
当時は家督争いは単にその家の家族間だけで済まされる問題ではなく、その一族や家臣らの意見がぶつかり合って、皆が納得しないとその家は崩壊へと進んでしまいます。
例えば、織田信長の場合、織田家の家督を相続しましたが、元々「大うつけ」と呼ばれていたため、その器量を疑問視していた重臣の林通勝や柴田勝家らは信長を織田家の当主と認めず、信長の廃嫡(家督相続を廃されること)と信長の弟である信行に家督相続させようと戦を起こしています。
現代と違って、主家を支える重臣や国人、土豪らから当主としての器量や素行の良さが認められない限り、家督相続は容易にできない時代だったのです。
ましてや畠山家は室町幕府の管領という家柄でしたらから、なおさら家督相続はスムーズにいきませんでした。
畠山家での家督相続では重臣らを巻き込んだ内紛に発展、そこに山名氏や細川氏といった有力守護大名の介入で混迷や遺恨が生じました。
さらに室町幕府の関東の出先機関である鎌倉公方の反乱、管領家の斯波氏でも家督争いが発生したことで、問題がより複雑化。
さらにさらに将軍家でも家督争いが表面化して、そこに有力守護の勢力争い、権力闘争が加わって、戦いの火蓋が切って落とされることになりました。
どちらにつくかで各守護大名の家でも分裂、当然家臣団も分裂。
主家が分裂をして力が弱くなると、重臣らが結託して当主を追放したり、ますます混乱が全国各地に広がります。
領国経営を家臣の守護代に任せっきりにしていたら、気づいた時には守護代の領国になっていたということも。
家臣らに領国から追放されてはかなわんと幕府からの統制を外れて、領国経営に力を入れる守護が出始め、やがて戦国大名へと成長していきます。
結局ゴールがないまま、むしろ室町幕府の統制が無秩序化して、その雰囲気が全国各地に飛び火して広がり、戦国時代に突入していくのです。
まだこの当時まであった公家による荘園経営ですが、地方で力を蓄えた戦国大名や国人らに
公家が持つ荘園を力で奪い取られ、荘園そのものがなくなり、収入源を絶たれた公家が大きく没落するきっかけにもなりました。
自分たちの田畑や家屋、財産は自分たちで守らないと他者に横領されてしまいます。
そういったことあって民衆の武装化も進みました。
「守護大名同士の争いに巻き込まれるのはゴメンだ。もうこの国から出て行ってくれ」と民衆が立ち上がった国もありました。
それが山城国一揆です。
深掘りし始めると楽しいはずの応仁の乱。
この乱自体が11年も続くなどしたため、敬遠している人も多い(私もその一人ですが)と思うのですが、こんな本はおススメですよ。
あ、これもクッリックしてもどこにも飛んでいきません。。。ご安心を。