「秋田美人」という言葉、惹かれますね~。
 
いまの秋田美人の代表格は佐々木希さんでしょうか。
 
 
アイドルからアナウンサー、女優さんまで多くの美人さんを秋田県から輩出しています。
 
演歌界でも。
 
 
かつてはこんな方も。
 
 
本日はそんな秋田美人に関連してのクイズでした。
 
では、本日の【ケータイ 国盗り合戦】のクイズです。
 
 
その武勇から「鬼義重」と称された戦国武将の苗字といえば?
 
1.本多
2.佐久間
3.柴田
4.佐竹
 
正解率は「4.佐竹」です。
 
正解率は76%でした。
 
ええぇ~、低っ!これは全然ダメですね。
 
【解説】
「北条氏と渡りあった武勇や知略から「鬼義重」と称された人物といえば、常陸国の戦国大名・佐竹義重です。義重には他にも、関東で最も優れたもの、という意味をこめた「坂東太郎」という異名があります。」
 
本日は戦国武将の異名についての問題でしたが、あまりの正解率の低さに目眩がしました。
 
本多といえば忠勝ですが、彼は蜻蛉切という槍が有名ですね。
 
武田信玄家臣の小杉左近からは「家康に過ぎたるもの」と評された話はついこの間しましたね。
 
信長は「花も実も兼ね備えた武将」と自らの家臣たちに紹介し、秀吉は「日本第一、古近独歩の勇士」とか「東の本多忠勝、西の立花宗茂」と評しました。
 
選択肢の佐久間、柴田は織田信長の重臣No.1とNo.2ですね。
 
佐久間信盛と柴田勝家です。
 
以前、「瓶割り柴田」の話を書きましたが、「鬼柴田」とか、「かかれ柴田」とも呼ばれ、戦場での突進力が織田家で一番ということから「かかれ柴田」と呼ばれました。
 
一方の筆頭重臣の佐久間信盛は殿軍の指揮を得意としていたことから「退き(のき)佐久間」と呼ばれていました。
 
織田家中には「かかれ柴田に、退き佐久間。米五郎左に木綿藤吉」という言葉があり、これは前述の2人に加えて丹羽長秀と木下藤吉郎(羽柴秀吉)をあらわしたものです。
 
丹羽長秀は五郎左衛門尉という通称から、信長からは五郎左(ごろうざ)と呼ばれていたようです。
 
何でも器用にこなし、織田家でもっと早くに国持大名に任命され、安土城の普請奉行を務めたり、各方面軍への援軍や補給などを担当しました。
 
秀吉については説明は不要ですね。
 
木綿のように丈夫な藤吉郎(秀吉)と米のように毎日の生活には欠かせない五郎左(長秀)が織田家中にいるぞということです。
 
さて、「鬼義重」こと佐竹義重。
 
数えで16の時に家督を相続し、上杉謙信と連携して北関東で勢力を拡大しました。
 
南に北条氏、北に伊達氏に挟まれて厳しい局面に立たされましたが、豊臣秀吉による小田原征伐ではかねてより秀吉と誼を通じていたこともあり、早々に参陣して一気に挽回を図りました。
 
関東、東北の大名が改易や大幅な減封処分がなされる中、常陸国54万石の大大名として認められたのでした。
 
ところが家督を譲った嫡男の義宣は、石田三成には以前より恩義があり、加藤清正ら武断派の武将7名から襲撃を受けた三成を助けるなど、石田三成を支持する武将でしたので、関ケ原の戦いが始まる際には、父・義重は家康に付くべきであると指示をするのですが、どちらに付くか表明できないままでいました。
 
結局、徳川家康からはそのどっちつかずの曖昧な態度を突かれ、常陸国54万石から出羽国20万石に減封されて、先祖代々の土地から離れなければならなくなったのです。
 
そこで佐竹氏一族(鬼義重というよりは義宣)は常陸国領内の美女を一人残らず出羽国へ連れて引っ越して行ったそうです。
 
これは俗説ですので、確たる証拠があるわけではありません。悪しからず口笛