前回は境界性パーソナリティ障害のことを書きましたが、書いてみると
「こういう人いたな」
と同時に
「自分もこういうことをやっていなかっただろうか、少なくとも相手にそう解釈されてもおかしくない場面はなかっただろうか」
とギクギクします。それはそれでいいのです。自分の中にもあると思えば他者にも寛容になる、かも知れません。人間ができていないので、なかなか計算通りにいきませんが。
 
 パーソナリティ障害特性には、性格悪いとすら言えないレベル(超気が弱いとか)から精神疾患一歩手前まで様々ありますが、今回紹介しようとしている妄想性パーソナリティ障害は後者です。
 他人の何気ない言葉を自分への批判を内包しているのではないかと受け取る、一瞬そう思ったとしても、普通は日常の中に埋没していきます。
「それ私のことでしょう」「○○するなってことですか」
と執拗に言っていたらかなり病的な印象です。
 こんな人はさすがに会ったことはありませんが、外から見ると自分こそがこんな風に見えるのではないかと考えました。例によって、私が書くと、また私もそうですよ、と言われそうなことなんですが。
 
 わからないことは聞いてと言われて聞くと怒られるという経験を繰り返して人間不信気味の私の前に現れる優しい人、自分は大丈夫だから、信用して欲しい、それは長くは続きません。私があまりにもしつこいからです。
 
 誰だって常に心理状態に余裕がある訳ではありません。いちいち言い回しを訂正させられたり説明を求められることに、相手も面倒になっていきます。
「それはこういうことですか」「こうしろってことですか」
責められているように聞こえてうんざりでしょう。
「それはあなたが悪いのではないでしょうか」
と言われるとそうなんですが、そこから得た教訓は、どんなに自分を信用して欲しいと言われても真に受けてはいけないというか、適切な距離感を取らなければいけないということでした。こうして文章に書くと
「友人または仲間の誠実さや信頼を不当に疑い、それに心を奪われている」
という、妄想性パーソナリティ障害の特徴の1つに合致してしまいます。これだけでは診断基準を満たさない(と思う)のですが。
 
 パーソナリティ障害の様々な症状に自分を見つけることは誰にでもあるでしょう。鏡に写った自分の姿に気づかされることで、修正の可能性が生まれ、他人を許せるようになる(かも知れない)のも、こういう分野に踏み込む価値というものです。
 
 
 10月18日の記事。ボージョレヌーボーまだ飲んでいません。