記事「行動と心情
」の中で、努力しろが悲しいとか怒っているという意味だったらという仮定をしました。それをもう少し検証してみます。
仮に、努力しろ=悲しい、という意味だとします。この場合でも、努力しろがどの場面でも悲しいという意味になるのではなく、その場面限定で悲しいということだと考えられます。すると
「よし、今度から努力しろと言われたら悲しいという意味なんだなと解釈しよう」
と決めても使えないのでしょう。心情的意味は、同じ言葉でも場面によって変わります。放置してあるけど、記号論 にそんな話ありました。
恐るべきことは、「努力しろ」が瞬時に「悲しい」に変換されて、見える人には見えるらしいことです。
「努力って何することだ」
→「こいつニートじゃん、私より努力していないだろ」
→「努力しているけどニートだって言うなら私だって同じだ、努力してこんななのだ」
→「てか私はニートじゃないぞ」
という思考過程は全くなくて、いきなり
「この人は悲しいのね」
になるんですか。天使のようです。
1万歩譲って努力しろ=悲しいなんだな、と理解したとしても、頭に来るのは変わりません。
「相手は要するにバ○なんだからさ、もっと大らかになろうよ」
と言われるかも知れませんが、バ○に馬鹿にされたということは私はバ○以下ということではありませんか。怠け者に怠け者と言われたらスーパー超新星怠け者です。私の方が働いているのに何だよこいつら。
心情が読めないことよりも人間ができていないことが問題でした。
この記事を1回投稿したらお勧め記事に
「努力する者は希望を語り、怠け者は不満を語る」
というタイトルが出たけど、そう解釈されるのが現実なんですね。家でブラブラして親の世話になって何年も
「がんばるぞ」
と唱えているのが前向きで一生懸命な努力家で、働いて困ったことやうまくいかなかったことを公開すると障害を盾にとって甘えている、となるんだと思うと悲しくなって、辛かった話ジェネレーター を改変してしまいます。
11月15日の記事。はてなブックマークがリニューアルして、まだ目が慣れません。
仮に、努力しろ=悲しい、という意味だとします。この場合でも、努力しろがどの場面でも悲しいという意味になるのではなく、その場面限定で悲しいということだと考えられます。すると
「よし、今度から努力しろと言われたら悲しいという意味なんだなと解釈しよう」
と決めても使えないのでしょう。心情的意味は、同じ言葉でも場面によって変わります。放置してあるけど、記号論 にそんな話ありました。
恐るべきことは、「努力しろ」が瞬時に「悲しい」に変換されて、見える人には見えるらしいことです。
「努力って何することだ」
→「こいつニートじゃん、私より努力していないだろ」
→「努力しているけどニートだって言うなら私だって同じだ、努力してこんななのだ」
→「てか私はニートじゃないぞ」
という思考過程は全くなくて、いきなり
「この人は悲しいのね」
になるんですか。天使のようです。
1万歩譲って努力しろ=悲しいなんだな、と理解したとしても、頭に来るのは変わりません。
「相手は要するにバ○なんだからさ、もっと大らかになろうよ」
と言われるかも知れませんが、バ○に馬鹿にされたということは私はバ○以下ということではありませんか。怠け者に怠け者と言われたらスーパー超新星怠け者です。私の方が働いているのに何だよこいつら。
心情が読めないことよりも人間ができていないことが問題でした。
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「努力する者は希望を語り、怠け者は不満を語る」
というタイトルが出たけど、そう解釈されるのが現実なんですね。家でブラブラして親の世話になって何年も
「がんばるぞ」
と唱えているのが前向きで一生懸命な努力家で、働いて困ったことやうまくいかなかったことを公開すると障害を盾にとって甘えている、となるんだと思うと悲しくなって、辛かった話ジェネレーター を改変してしまいます。
11月15日の記事。はてなブックマークがリニューアルして、まだ目が慣れません。