昨日の記事 の、私の妄想コメント部分以降は、今日の内容を当初予定していました。あまりにもひどいので昨日の内容にしたのですが、やっぱりひどかったので、ひどいついでに差し替え前の内容も出すことにします。
 今の自分が一番 = 説教される
という被害妄想ラインができ上がっていて、セルフエスティーム 的にソフトな話を書くつもりでいてもすぐ攻撃的になってしまいます。いつの日にか、この呪縛から逃れられるでしょうか。(とりあえず夕日に向かってダッシュだ)
 
 希望には説教される希望とされない希望があります。明確に定義できませんが、自分の努力で実現可能な希望は説教されず、他人の力を必要とする希望は説教されるということでいいでしょうか。
 何か変だな。自分の中で解決するなら希望する必要はなくて、ただ努力すればいいのです。希望として他者に対して表明されるということは、自分の力だけでは解決しないからであるはずです。はずですは言いすぎですね。私も聞かれれば答えてしまいますから。(気をつけねば)
 
○「仕事で実績を上げたい」
これは説教されないでしょう。
△「お金が欲しい」
これだけでは説教まではされなさそうです。
×「これだけ実績を上げたので、これだけ給与をアップしてもらいたい」
これは説教されそうです。あれ、やっぱり変だな。別に不合理な話ではないのに。
 
 仕事に対してお金をもらうことが汚いことであるかのような考えが根底にあるような、いや、仕事してお金もらえないと困るんですけど、残業をきっちりつけるとセコイみたいな、お金もらわずに一生懸命働くのが偉いみたいな、支配者に都合いい思想が根付いています。
 
 こういう思想が根底にあるから、説教するニートが
努力するニート >>> 越えられない壁 >>> 努力していない(ように見える)労働者
という価値観になってしまうのではありませんか。
 その価値観が間違っているとまでは言いませんが(個人的には信じがたいけど)どんな努力をしていようとも、ニートが労働者に、努力が足りない、怠けているだけ、と説教する資格はないはずです。(最後はいつもここ)
 
 こいつらが
「自分はお金のために魂を売ったりしない」
とかっこつけているかと思うとムカつきますが、私のような言葉の受け取り方をする人の中には
「金のために働くというのはみじめなこと」
などとどこかで聞いて
「そうか、金のために働くのはみじめなことなんだ」
と真に受けている人もいるかも知れません。私は金もらえないんだったら働きたくありませんが。
 
 
 4月11日の記事。今Yahooで努力投票しています。説教族最大の謎は、
「なぜ自分が働いていないあるいは人の助けで生きているのに、働いている他人に怠け者と言えるのか」
なんですが、努力という言葉に対する認識がかけ離れているらしいです。
 私は実際に活動することが努力であるという固定観念から抜け出せないために、別な意味で使う人との対話がすれ違います。投票は毎回よい結果をもたらしてくれるので楽しみです。