2月9日にやっと1巻読み終えました。12月29日に読み始めて から1ヶ月と10日もかかっていて先が思いやられます。それからレビューを書くまでさらに10日以上かかっていることにも、先が思いやられます。
 読み始めてから、3月いっぱいで失業することが決まったりして落ち着かない日々でしたし、これからもそのからみでしばらくは落ち着かないことでしょう。(言い訳)
 
 ドストエフスキーの作風だからか翻訳ものだからかわかりませんが、戯曲的でセリフによる説明が多いところが読みにくくしています。
 1つのセットが作られ、そこに複数の登場人物が登場、あれやこれやとセリフを交し合い、別の場所に移動、セットも変更、というお芝居を見ているようです。
 昔、「武器よさらば」を読んで挫折した時も同じような印象を受けました。延々と続く会話、会話。どのカギカッコが誰でしたっけ。
 
 次々と増えていく登場人物も、必要なセリフを言わせるために思いつきでその場に持ってきたような印象を受けます。例えばですが、A、B、Cの3人がいた として、BはAの学生時代の友人、CはAの近所に住むおばさんという説明しかないのに、BはCの家に上がりこんでお茶を飲んでいる、とか。もしかしたらこ の先キーマンになるのかも知れませんし、私が細かいことを気にしすぎではあるのですが。
 
 日本の文学だと、セリフでストーリーを進行させるのは小説の書き方としてはよろしくないように聞きます。
 今まで翻訳ものはうんたらみたいに気にしたことはなかったのですが、小中時代のジュニア版(あるいは漫画版)で主だった名作は読んだ気になっていました し、ジュニア版で読んだ作品をシニア版(ていうのか?)で読み返してもストーリーを知っているから、気づかなかったのでしょう。がーん。
 
 コンビニに「カラマーゾフの兄弟」の漫画版が売っていましたが、我慢我慢。そういうのを読んでしまうからいかんのです。映画でも、特に洋画は、あらかじめパンフレット読んでおかないとわかりづらいものがあります。
 1巻の終わり(慣用句ではない)から、物語の視点が三男に統一されて読みやすくなりました。全然ストーリーについて触れていませんが、それはまた次回。
 
 
 2月21日の記事。次男の演説には現代のネット界にも通じるものがあります。