説教されやすい話題であることを最初に断っておけば説教されにくくなるのではという愚かな計算をしていますが、発達障害の概念が語られ始めた頃は
「本人のわがままや性格の問題ではなく、生まれつきの脳の機能障害である」
ことが強調されました。それ以前、発達障害者が
「性格の悪い怠け者」
と迫害され、いじめ、登校拒否、スチューデント・アパシー、ニートといった一連の不適応の一因であった状態から何とか救い上げようという、関係者の願いがこめられていました。
 
 最近は子供の早期発見対応が進み過ぎ、甘やかしの問題や差別問題が出て、
「大したことではない、個性のひとつと考えるべき」
論が復活しつつあります。おいおい、それでは元に戻ってしまうではありませんか。
 個性という言葉を他の人がどう捉えているか知りませんが、私は現在の日本では、障害と位置づけないと理解を得られないと考えています。
 
 昨年書いたマイノリティたち という記事で引用した色弱の記事 。運転免許も医師免許も取得でき、よほど繊細に色彩を扱う仕事につかなければ問題ないのに、かつては進学や就職にも支障がありました。
 今は差別を避けるために学校で検査をしていないそうですが、色弱に気づかないまま成人したり、いじめられても理由がわからないということが発生しそうです。
 
 障害なら差別され、個性ならいじめられる、関係者の意見はその間で大きく揺れ動き、また揺り戻されます。上の色弱の記事と、転載先も含めたコメント欄の反応を見ると、
「障害ならいじめてはいけないが、障害でなければいじめてもよい」
とまでは申しませんが、障害だとわかったことで個性を受容できるという側面は確実にあります。
 
 個性としてしまうと、
「だったら直せ、直らないのは直そうという気持ちがないからだ」
という説教がおそいかかってきます。原因が障害でも同じ説教をする人もいるので、そういう人たちにはどっちでもいいのかも知れません。説教ができれば。
 一般企業で働く聴覚障害者の話 でさえ、
「マイノリティがマジョリティに合わせるべき」
という認識です。マイノリティがマジョリティに、弱者が強者に、能力の劣った側が優れた側に合わせるべきという社会認識である限り、どうしても合わせられなければ不適応になってしまいます。
 
 個人的には、
「かわいそうだと思うのは失礼」「厳しいことが本当の優しさ」
「人はみんな同じ、だからみんな仲良くしましょう」
という妙な道徳的思想が、他人への優しさを排除していると思っています。大体いじめの発想は、相手の悪いところを直してあげよう、それが相手のため という高尚な思想から始まっています。
 
 説教族は例外にするにしても、あの色弱転載記事の反応を見ますと、個性と呼んでしまったら前時代に戻ってしまいそうです。
「みんな同じ、人の能力にはそれほど差はない、あなたは努力していないだけ、他の人はみんな見えないところで努力している」
せっかく知られてきたのに。
 こういう障害が存在することを多くの人に知って欲しい、しかし個人にレッテルを貼ってはいけない、それが
「無知は罪」(色弱記事本文より)
ということです。
 
 
 6月2日の記事。言い訳をかねて自分のコメント返信をひとつ写します。
「障害か個性か」でググッたらこの記事がトップに来てビビリました。
これはどちらも意味の幅の広いワードなので、どういう意味を持たせているかでこの記事の解釈も随分変わるであろうと覚悟はしていました。
私は、周囲の理解を得るために名称を必要とするなら全て障害と解釈しました。
例にあげた色弱は男性で20人に1人だそうですから珍しいものではなく、「変わった色使いをする個性」に過ぎないのに、それでも「色弱」という名称を必要とするのだ、とリンク先の転載記事を見て強く感じました。