私の実家は、宗教的にはごく標準的な日本人家庭です。仏壇も神棚もあり、お正月には神社に初詣、お盆にはお寺に墓参りし、クリスマスも祝います。年中行事の中に取り入れてはいても、実態は無宗教です。
 いわゆる新興宗教に興味はありませんが、新興宗教の活動をしている知人はいましたし、勧誘さえされなければ普通におつき合いできていました。
 
 過去記事「説教したがる人々 」の中で、私を自己啓発プログラムに勧誘しようとした人のことを
「宗教みたい」
と表現しました。これは揶揄する意味を含んでいます。よく使われる表現で、ほとんどの人が私と同じ意味で使っており、齟齬を感じたことはありません。そして、このニュアンスを代替できる適当な表現もありませんでした。
「宗教みたい」
という言葉が出てくる話題の時、自分もとある宗教に入っている、と告白されたことがあります。私は、悪いことを言ってしまった、と思いました。
「でも宗教みたい、という気持ちはわかるし、自分もそう思うし、変な宗教は嫌だし、友達を勧誘したりしない」
と言われ、ほっとしました。本当でしょうか。それとも気を使ってくれたのでしょうか。
 
 宗教みたい、という言葉は揶揄には違いありませんが、それは宗教に対する偏見なのでしょうか。友達が何かの宗教を信じているとしても、それが原因でその友達に対する見方は変わりません。
 自分の結婚相手(いないが)であれば、考えてしまうかも知れません。新興宗教だけでなく、仏教やキリスト教のような、
「現代日本で偏見対象となりにくい」
宗教であっても、違う文化圏からそこの家族になるというのは勇気が要ります。これも偏見なのでしょうか。違うと思いたいですが、
「結婚に反対される」
というのは差別的取扱いがあった時象徴的に言われることです。
 
 先日書いたように 、宗教や信仰生活に憧れる気持ちもあります。しかし、もし、
「自閉症みたい」
と揶揄する言葉があったら。
「アスペルガー症候群てかっこいいですね、私もなってみたい」
なんて言われたら。
 それはぞぞっとする衝撃と共にはね返ってきます。社会的な意味合いも、状況も、名づけの範囲も、全然違うのかも知れないけど、でももしかしたら。私は彼らを差別するマジョリティだったのかと。
 
 
 3月29日の記事。人はたいてい、マジョリティであると同時にある分野においてはマイノリティなんであります。私もそうだけど、マイノリティであることを隠すから余計実態が世間に知られなくなっています。個と個が理解し合うことによってその所属集団に対する偏見が消える訳でもなく、先はまだ長いです。