みつくるさんが取り上げていた道徳主義者のファシズム 、羊の皮を被った狼的な楽しさがあります。誰しも自分は羊だと思っているのですが、自分が知らないうちに狼となっていることを自覚しないといけないなどと語ると
「狼にならないようにしようという努力が感じられない」
と説教されてしまう、時代もありました。
 
 説教族襲撃事件の前振りや、後で彼らが書いたものを見ると
「まずは努力しないと駄目だと思う」
のような言葉が出てきます。独立して見ると正論ですが
1 努力しないと駄目ってそんな当たり前のこと、自分が発見した新しい論みたいに言っているのは何?
2 まずは、って、何をどうするかわからないと努力のしようがないのでは。まずはって何?
3 方向性の間違った努力は無駄なんですけど?
と何重にも疑問符が重なるのですが、これも後からどう受け取られたか一生懸命考えて推測したもので、その時は相手が何を言いたいのかわからず、混乱させられました。
 
 1+1=2にならない、というタイトルの本を昔読みました。1リットルの水と1リットルの水を足すと正確に2リットルにならないとかそういう話なんですが、こういうことを書いたブログがあったとして
「1+1は2なんですよ。あなたは何もわかっていない」
というコメントが入ったらそのコメント者が当然、記事を上回るようなすごい知識を持っているのではないかと期待しませんか。
 それを前提に議論を始めて、単に小学1年で習った1+1=2のことを言っていただけとわかったら、ドッチラケで疲れるだけです。
 
 確かに1+1=2は独立して見れば正論ですが、上の2にならない話はそれを誰でも知っている大前提として書いてある訳で、それを理解できない人に、理解できているという前提で反論して通じず
「そんなの言ってくれないとわからない」
と逆ギレされると、どうすればよかったんだと大混乱です。
 ネットはどんな背景を持っている人がやってくるかわかりません。現実にはとても出会えないような優秀な人と交流できる楽しさがある一方、こちらが想像もしないような基本的な勘違いをする人もいます。書籍のように、理解できる人だけが読むだろうというのも間違った前提です。
 
 相手の知的レベルが低いかもと考えて対応するのは失礼な気がして、わからない場合は相手の方が知識があると仮定するのが適切と考えていましたが、そうでもないかも知れません。
 よく知らない人ときちんと議論できる人は尊敬しますが、私はあのドッチラケを思い出すと怖くて対応できません。第1段階からの再構築 の方法を間違えたのですね。破壊を感じたら、近づく前に少し離れてみるのも必要です。
 
 
 2月18日の記事。コメント者の知的レベル、ブログがあればまだわかるのですが、コメントだけだとわかりづらいです。文章構成能力と知的レベルが必ずしも比例しない可能性はありますが、説教かましてきた人は(自主規制)。