名付けという行為がとても嫌われることは、小さい頃から知っていました。
「決めつけてはいけない」「それは偏見だ」「そんな風に言うんじゃない」
??? 頭の中にある混沌としたもの、整理しようとすると否定されてしまいます。
 
 色弱関係の記事に触れた「マイノリティたち 」を書いた頃も、私は名付けとは理解のための行為であると確信していました。あの色弱の記事では、変わった色使いをするクラスメートを仲間外れにしていたのを、後に色弱と知って反省しました。つまり、「色弱」という名付けによって初めて、変わった色使いをするクラスメートは「理解」されたのです。しかしこの名付けは簡単に「偏見」に変わります。
 
 私はアスペルガー症候群と知って初めて自分を、そして周囲の人々を、完全にではありませんが理解できました。有用な名付けでした。
 このブログを始めてからの2年間で発達障害の早期発見、早期療育が進んだにも関わらず、逆に発達障害であることが差別や自己否定につながったり、ちょっと扱いにくい子をすぐ発達障害扱いしたりという傾向も出てきました。理解のための名付けが偏見につながっていく過程を、図らずも垣間見てしまうことになりました。
 
 言ってくれれば配慮する、と言う人は多いらしいですが、私はあまり信用しません。それはすぐ偏見に変わってしまうからです。色弱が疑われる人に
「あんたもしかして色弱なんじゃないの、本当のこと言いなさいよ、色弱なら配慮するよ、違うんだったらいじめるよ」
と詰め寄っているようです。
「もしかしたら」
と思った人が、何も聞かずに自然に配慮するのが一番ですが、これは説教族に怒り狂われたネタなので恐ろしいです。
 日本では、親切にする時は相手が要求する前に先回りして行わなければならず、言われてからするのは親切のうちに入らず、さらに要求する側は大悪人とされます。だから、親切にする側が予備知識を身につける必要があります。
 
 名付け、理解、偏見、差別、どこでこの言葉が交わってしまうのでしょう。
 
 
 2月5日の記事。記事と関係ありませんが、普段、1日400~500PV(ページビュー)のこのブログが、昨日(3月7日)1日で2468PV。半分以上が午前7時台。一般的に、大勢の人が何ページもブログを読む時間帯ではないと思われるのですが、何があったのでしょう。