新しく友達を作る時は
「似た人に近づく」「共通点を見つける」
から入るのが王道なのですが、私のような人がいたらあまり友達になりたくないような・・・って、勝手ですね。
 尊敬できそうな人に近づきたいのですが、そういう人はなかなか友達になってくれません。年が上なら師弟関係になってしまいます。対等な関係でいたければ私にもその人から尊敬されるような点がないといけません。
 
 ブログ上では大変優秀で尊敬できる友人に恵まれていますが、それはブログが文章が前面に出る、自分の好きな話題で一方的に発信できるという、私にとって都合のいいアイテムだからです。リアルだったらおどおどして鈍くさい私は相手にしてもらえないでしょう。
 彼らが私に似ていないかというとそうでもなくて、言葉を交わせるというだけでも私に近いものを持っているし、趣味や方向性にも似た部分はあり、その上で違う部分を尊敬しています。
 海風さん が、今やっている異文化交流議論を
「議論参加者の大体の方向性は一致しているけど、一人一人の具体的な目的はたぶん一致していないだろう」
と表現していたけど、そんな感じです。友人たち(議論系の人だけでなく)は私のいい部分を引き出してくれます。
 
 同族嫌悪というのは、自己評価が低いと起きやすいのかも知れません。自分のいい部分が似た人に親近感を持てれば共に成長できるのに、自分の欠点ばかりを自覚し、嫌だなあと思っていると、同じ欠点を持つ人ばかりが目について、さらに自分が嫌になってしまうような。
 日本の言語文化だと、自分の長所を口にするのはみっともないこととされるので、言葉と心が未分化な私は例によって口に出してはいけない=考えてはいけないと思いこんでいました。
 
 短所よりも長所を見ることで、自分にも他人にも肯定的な見方ができ、異文化への柔軟性も増すのではないか、と、今書いているだけで本能的に恐怖を感じるあたり、
「自分は欠点だらけの人間だと言う(考える)のが奥ゆかしい」
「自分の長所を言う(考える)のは恥ずかしいことだ」
というルールからまだ抜け出せないようです。
 
 
 12月26日の記事。長所を自覚する、長所を伸ばすという論は書くと圧力隊(新語。説教族ほど過激ではないが、親切な表現で同化圧力する心優しい人々。早速流行らせよう)に責められました。「怠けたい」に変換されて見えるらしいです。
「どうせ私なんて」
調で書くとそれはそれで怒られるので、要するに、何を書いても反対意見は必ずあるので批判には全く意味がなく、だったら批判は一切禁止で何の問題もないということです。