以前、
「広辞苑の面白言葉を紹介するだけで1万記事はいける」
と豪語したことがありましたが、そのようなことをしてみようと思います。
 私が広辞苑を眺めて面白いと思った言葉を五十音順にピックアップしてそれをタイトルにして記事を書きます。不定期企画。第1回は「あ」より。
 
合縁奇縁(あいえんきえん)
 人の交わりには自ずから気心の合う合わないがあるが、それも皆不思議な縁によるものである、という意。(広辞苑第四版より)
 
 この世で起こることは全て前世からの因縁である、みたいな話がありますが、そういうのは嫌いではありません。諦観 、という感じで。説教族には怒られそうですが。
 気心の合わない人との出会いも不思議な縁によるものなら、説教族襲撃事件も不思議なご縁でした。彼らは今何を思うのか、きれいさっぱり忘れていたとしても、私が忘れない限りご縁は続くのです。ふっふっふ。
 
 先日、タニさん
「共通認識こそが絶対だという考えが世の中を支配している中、R氏のような存在はひとつの問題提起をしていると思いました」
というコメントを受けて、かんさつ日記 を読み返しました。
 R氏の言葉の中に、過去の自分の言葉を見つける時、ああ私は人を傷つけていたんだな、こう思われていたんだな、迷惑だったんだな、と思い出します。にこにこしていたあの笑顔は、苦々しい笑顔だったのかも知れません。
 人はどこまで異質のものを受け入れられるのか、受け入れられないとどうなるのか、ずっとずっと考えて、答の出ないテーマです。
 
 私自身が許容範囲狭いです。説教族とは共存できない、と彼らを否定し、近寄らないことにしています。自分を攻撃する人々を肯定することはできません。
 きっと今後も、どこかしらに矛盾を抱えつつも、突きつめて考えるとすべってしまいながらも、
「多くのマイノリティの存在を知る」
「受け入れがたいなら近寄らない」
で推移していくでしょう。知っただけでも理解は始まります。「近寄らない」はひとつの選択の結果です。
 R氏と出会った人々は、何かを見出したのでしょうか。私と出会った人たちも。
 
 
 8月15日の記事。記事中に登場するタニさんの最新のお言葉。
「やっぱり全ての(といっていい)人間の共通の望みは、多くの人と分かり合えることなんだなと思います。コミュニケーションをとることの難しさに苦しい思いをすることはたくさんあるけど、色んな人と分かり合いたい。そんな気持ちが伝わるようです」
私の繰り返すコメント削除→ウダウダ振りを見てなお、そのように考えていただけるのはとてもありがたいことです。分かり合える人は少なくても、分かり合える人とめぐり会いたいという気持ちは私にも(少しは)あります。