わたりとりさんの「なんで書けないんだよ
」はタイトルからして私好みです。何かの理由を考える時、それはネタの宝庫であり、思わぬテーマにつながっていくからです。
この記事の元ネタ
、私もはてブで関連記事を見かけましたが、興味引きそうな話題でなかったためスルーしました。いかにも展開が見えるからです。
「書きたいように書けない」
「思い浮かんだことを書けばいい」
ああどこかで見たようなすれ違い。
きっと定型発達者にも、言語で思考する人、映像で思考する人、それ以外の方法で思考する人、入り混じっている人、と様々で、多くの人が、自分以外の人間の脳内も自分と同じように展開していると信じているのでしょう。
私は朝から晩まで自分の行動を言語化して生きています。目覚ましが鳴った。あと30分は2度寝できる。寝こんでしまったらどうするんだよ。それがそういうこと1度もないのだ。何でだろ・・・起きるか。
家を出た。忘れずにカギをかける。エアコン切ったっけ。切ったけど、もう1度見よう。切ったはずなのに帰ってきて切れてなかったら騒ぎだ。騒ぐのは私だけど。
駅に向かって歩く。走ればひとつ前の電車に間に合うかな。せっかく走ったのに途中で信号が赤だと朝からむかつくのよねん。
と1日中文章で思考しています。時々文章をほめていただきますが、1日に思考した膨大な文章の一部を切り取っているだけです。
こう書くとまた、そんなの誰でも同じだ攻撃が来そうです。私もずっと、他の人も同じだと思っていました。診断以前から
「人は言語で思考する。言語がなければ人類は複雑な思考をできなかった」
と小学校の国語の教科書に採用されそうな文章に書いてあったので、そうだなと思っていました。
他の人は違うかも知れない、と思い始めたのは、このブログで、シナリオ行動
、掃除機メモ
に驚かれた時です。
その後、当事者本の中で
「他の人は私が歩く時も階段を昇る時も歩くぞ、とか階段昇るぞ、と考えないとできないことを知らない」
という表現を見つけて、普通は違うのか? と軽く衝撃でした。
この話、続きます。まだ考えたことの10%も書いていません。一般的なことも、自分のことも。
3月4日の記事。5連作の初回です。私と外の世界をつなぐ絆、「言語」というテーマに興味はつきません。
「どう書いていいかわからない」
人が存在するなら、「なぜ」書けるのか。自分ができることは他人もできるはず、という思いこみを外すと、別なものが見えます。
「映像でものを考える人」というのは仮定だったのですが、コメント欄で多くの証言を得て、そういう人は結構いること、そしてそういう人にとって考えを文章化することは難しい作業である、ということがわかりました。(素人の体感で、科学的なものではありません)
コメント欄に話題はスポーツへ。スポーツは脊髄反射のような一瞬の判断が要求され、文章でものを考えていては動きが間に合いません。私は間に合わなくて、いつもドッジボールではぶつけられていました。