AS当事者のブログで、他と交流を持たずひっそりやっていらっしゃる方の中には私以上に悪語を使用される方もいます。
「あんな説教受けるんじゃないか、こんな説教が入るのではないか」
と私の方がびびったりします。共感できなくても、その悪語には惹かれます。
説教族を刺激しそうな言葉に
「私は世界一不幸だ」
という類のものがあります。これはほぼ反射的に
「世の中にはもっと不幸な人がたくさんいるんだ、甘ったれるな」
という幻聴様をお呼び出しいたします。しかし
「自分より不幸な人間を探し出してその人よりはましだと安心する行為」
には別ないやらしさがあります。そういう書き方をしたら今度は
「思いやりがない」
と説教されそうです。
この相反する二つの感情は、多かれ少なかれ誰の中にもありそうです。誰であっても
「自分は運が悪い」「不幸だ」「世界でとは言わないが、目につく人間の中では一番不幸だ」
→「いや、もっと不幸な人間は他にもいる。くじけず頑張ろう」
のような心の行く立てを1度くらいは経験していそうです。
私が他人の心を読んでもかなり外れ臭いのですが、一説には当たりすぎていて怒らせてしまうともいいます。
「私は世界一不幸だ」も
「もっと不幸な人はいる、その人よりまし」も
説教されそうな言葉ですが、どちらかというと後者の方がいやらしい度が高い気がします。これはとっても感覚的なので、他の人は違うかも知れません。
そして、後者の方が書き方によっては前向きな感じというか善語っぽくなります。その善語っぽさに、嘘臭さを感じてこそばゆくなります。
悪語と呼ばれる(造語なので、そう呼んでいるのは私だけなんですが)言葉を目にする度、
「これは説教される」→「なぜ説教されるのか」→「どんな受け取り方をされるのだろう」
と妄想し、自分の言語感覚との違いを考えます。
1月4日の記事。自分で言うのも何ですが、正月ボケがやっと抜けてさえています。多くの説教族は、話の内容ではなく悪語に反応しているということを、忘れてはいけません。これに気づかないと、現実でしかられた時、次回その反対をやったらやっぱりしかられて訳わからなくなったりするのです。
素敵なコメントたくさんいただきましたが、代表して海風さんのを写します。
「他にも不幸な人はいる。」という説教は、言葉の裏に、「だからてめぇも頑張りやがれ。一人だけ逃げんじゃねぇ。」という意志が隠れております。その上、“全ての人間の肉体と精神は、工業製品並に同じ性能を持っている”という大前提があります。この時点で、相手の性格や人格を否定(無視)してしまっているので、むかつくのかもしれません。