受け入れられたいと願う時、私たちは受け入れる側にもなります。受け入れられたいなら受け入れなければなりません。ギブアンドテイクです。
そこに立ちはだかるのが、例によって説教族です。以前、説教族は文化ではないと書きましたが、海風さん制作の図
に登場した以上、ひとつの異文化として認めなければなりません。
わたりとりさんおっしゃるところの他者依存表現。それ自体が悪いとは言えません。他者を攻撃することでしか自我を保てないなら、そうするしかないなら、攻撃も生存権です。文化人類学研究では、たとえ人食い人種でも「こちら側の概念」で裁いてはならないのが鉄則です。
私が「記事書けない病」の頃、このことでとても悩みました。自分が書きたいなら説教族の表現の自由も認めなければなりません。自分は書いてもいいが相手はダメなどという論理では彼らと同類です。しかし認めたら私が書けなくなります。
こちらのブログのコメント欄でなく、本人が自分のブログで書くならどうでしょう。URLをさらして非難されたら、見た時きっといやな思いをします。受け入れ難いほどひどい内容だったら。それでまた書けなくなったら。
答。私はいやな思いをする。いやだと表現することは私の自由だ。私は全身全霊をもっていやだと表現する。誰にも取り締まる権利はない。後は読者が判断する。
「儀礼的無関心」という言葉が出ていますが、共存できない相手と無理に共存することはありません。私が消えるか彼らを消すしかない、そこまで追いつめられるなら、別々な場所で生きる、お互いに近寄らない、というのは異文化とのあり方のひとつの選択です。
異文化との出会いは楽しい、正しいことは1種類ではない、異文化との接触方法も1種類ではない、考えは違っても、お互いを尊敬し、共存できる人々はきっとずっとたくさんいると、大いなる希望的観測をもっています。
人は皆、テラ・インコグニタ
。共存できても、できなくても。
12月23日の記事。Yahooが多少軽くなったと思ったら、今度はこちらが激重でした。管理画面とトップページが。何か改造している模様。