私の書き文字は、中学生の頃のノートの字と変わりません。ふと気づくと、同年代の字が大人っぽく変わっています。ある時期までは大して変わらなかったような気がしますが、いつから大人の字になるのでしょう。ある人が申しました。
「こう書くと大人の字になるな、と思った瞬間があった」
へえ、そうなんだ。少しづつ変わって気づいたら大人の字になっていた訳ではなくてある瞬間に変わるんだ。
 もちろん自然な筆跡が変わるまでにはもう少し時間がかかるでしょうけれど、そのきっかけになるような瞬間は存在するのではないかと、とても印象に残りました。
 
 子供から大人にシフトする瞬間は、誰にでもあるのでしょうか。少なくとも私にはありませんでした。わたりとりさんの「こどもぶろぐじ 」では、ハウツー本を子供向けおみくじに例えていらっしゃいました。はい、その通り、私はハウツー本大好きです。

「人に好かれるコツ」「自分を変えるコツ」「人生を豊かにするコツ」等々。

【これをよめばじんせいだいきち】ということはありませんでしたが、役に立つ部分もありました。何でも言葉でないと理解できない(雰囲気、周囲の空気から何となくわかるということができない)私には貴重なノウハウでした。これでどうにか「大人」として生きてきました。
 ただいくつかの肝心なことは書かれていませんでした。といいますか、言葉の使い方に起因することなので、書籍の表現ですら、私の世界の言語とは違っていて、気づきませんでした。
 
 私たちの障碍の特徴のひとつに
「言葉を文字通りに受け取る」
というものがあります。比ゆ表現がわからないと説明されることが多いのですが、私の内部ではそんな単純なものではありません。比ゆ表現は、読書や対話、学校の現代文の授業などからある程度経験で身につけることができるからです。
 最近気づいたのは、言葉は事実を伝えるためのものではなく、希望、願望、目標、未来、内面、意欲を伝えるためのものだった、そして定型発達者自身それに気づいていないから、私たちに説明することができない、ということでした。

 
 小さな子供のうちなら誰でも「言葉を文字通りに」受け取っていた気がします。いつから人は「言葉の真実」を知るのか、その瞬間があるならその時が、特に言葉の面で、子供が大人にシフトする瞬間、と考えました。
 いつから人は自己PR語を、謙譲の美徳語を、使い始めるのか、全く無意識の世界で行われるのでしょうか。それとも「知って」いましたか。

 子供から大人へのシフトは、無意識で行われている部分と、意識的にされている部分が混在しています。だから、ある瞬間から一気に大人になるのではなく、少しづつシフトしていくのでしょうけれど、言葉の部分がどうなのか、興味深いです。

 

 

 11月26日の記事。わたりとりさんの「こどもぶろぐじ 」に、コメント代わりにトラックバックしました。さらに、海風さんから「ハウツーものの功罪 」というトラックバックをいただきました。その後マイブームとなったブログ文化論シリーズを思わせる楽しい展開でした。ブログ文化論につながるネタがふんだんに入っております。