連日報道のJR福知山線脱線事故、多くのブログでもこの痛ましい事故について語っています。私もたまにはこういう題材で書いてみましょうか。事故を聞いて私は最初に何を思ったのでしょう。
(あれ)
自分の感情が、ない。浮かぶのは、報道された内容と他のブロガーの受け売りばかりです。私自身は何も感じていません。
冒頭に「痛ましい事故」と書いておきながら、こういう時はこう書くものである、という知識からのみ書いている気がします。私は痛くないのです。
もしや私には感情がないのでしょうか。そんなはずはありません。でも私の感情は自分か自分になぞらえることができるものにしかわきません。一生懸命言い聞かせます。
(100人以上の人が亡くなっている)
死者が1人なら感情移入もできますが、これだけいるとぼやけてきます。日本で同じ日に別な理由で亡くなった方はどれだけいるでしょう。世界で見ればどれほどになるでしょう。病死、事故死、早世、どんな死にも悲しみのドラマがあります。全てに感情移入していたら身がもちません。
自分の感情を呼び覚ますためにニュースを見、ブログを追います。何か出てきてお願い。感情が動いてくれません。普通はこういう時自然にわきあがる内なる色彩が誰にでもあるとしたら、私の心は何と寒々としているのでしょうか。
昨日のこのブログの記事を書いていて、私は信じた人の嘘や裏切りに反応していたのではなく、予定を急に変更されたことに対するパニックに嘘への恐怖を植え付けられていた気がしました。自分の予定に関わらない嘘には私は寛容です。私の感情は悪意にすら無反応だったようです。「嘘」の意味がすれ違ったはずです。私にとっての嘘は「予定を強制的に変更する圧力」だったのですから。
まだ読んでいる「自閉症だったわたしへ3」に、主人公が「防衛心」と呼ぶ偽の感情と戦いながら本当の自分の心を取り戻そうとするシーンがいくつかあります。いつか、私も心を取り戻せるのでしょうか。
4月28日の記事。この記事はあらかじめ全体の構成を考えずに書き始め、思わぬ結論に達しました。そして多くのコメントから、「第3者の立場に立つ」ことと「感情移入する」ことの違いに気づきました。
自分が相手になったことを想定してその気持ちを妄想する(感情移入する)ことはできますが、距離を置いてみる(第3者の立場に立つ)ことがどうも難しいようです。だから説教族の気持ちがなかなかわかりません。
1人の死をイメージできても100人の死をイメージできない、自分が100回死んだ、と考えても違う気がします。
自分のことしか考えられない→思いやりがないという障碍の特徴には抵抗があったのですが、誰かを思いやろうとすると、脳の電流が目標の場所に流れてくれないといいますか、その部分にあるはずのものがないような空洞を感じるのです。