新作です。ちょっちぷんさんがトラバしてくれた記事 (反映されていないけど)にトラバ返し。

 コメント欄を見て、一瞬「いやだな」と思うことは私にもあります。しかし文章が思いやりと善意にあふれていると、そういうことを思うことすら失礼な気がして打ち消してしまいます。

 

「あなたのためを思って言っているの。今はわからなくても何年か経ったらわかると思う」

善意にあふれているけどいやな感じ。そう感じるのは私が醜いからでしょうか。

 その言葉がためになったかどうかというジャッジは誰がするんですか。

「私ってば自分が嫌われることも省みず、自分を傷つける人間すら思いやれる、何て優しい人間なんでしょう。あなたのような醜い人間にはわからないだろうけれど」

という意味ですね、なんて考えることすらはばかられます。

 

 ASの子供は人前で、他人の容姿の特徴など、とんでもないことを言ってよく怒られます。私も何度も怒られました。その時怒る人の怒り方は泣き叫ぶように、悲しそうです。自分がとてもいけないことをしたのはわかりますが、何がいけないのかわかりません。状況を理解するために言葉にしただけなのに。

 考えることと口に出すことがイコールである時期は定型発達なお子さんにもあると思います。発達障碍があると、それを知る時期がとても遅いようです。私も、

「考えることは必要なことだが口に出してはいけない」

というのは、感覚でなく言語で知りました。

 

 頭上を飛び交う謎の素粒子を、言葉で理解しようとしていつも失敗します。ある程度はわかりますが(言語化できる範囲で)醜い表現になるほど、そこに踏み込むことにためらいが生じます。

 

 口にしてひどく怒られた経験、悲しそうな顔。

「そんな意味で言っているんじゃないでしょう」

「どうしてそういう風に受け取るの」

「思いやりってものがないの」

「そんなことを言って人がどう思うかわからないの」

悲しいことは考えてはいけない、こんなことを考える自分は醜い、言ってはいけない=考えてはいけない。ねたみ、悪意、自己像の保持、嘘、考えてはいけない。善意の言葉が自分の中にドロのように沈澱していっても。