本日は
わたなべこうさんのアメブロから拝借。🙏
以下引用。

それに、同じ言葉を投げかけられたとしても、

『愛されている』という前提が、有るのと無いのでは、大きく感じ方が変わりますよね。


もしも、苦言を呈されたときに、

『愛されている』という前提があると、その言葉をポジティブに受け入れて、

「私の為に言い難いことを、言ってくれているんだ♡」って、素直に反省して改善ができたりしますが、


『愛されている』という前提がなかったら、その言葉をネガティブに捉えて、

「私を批判している…私を馬鹿にしている…あいつ許せない…」って、

ネガティブに捉えて反発をして、勝手に恨んだり、落ち込んだりしてしまいがちです。


また、『愛されている』という前提がないと、

LINEなどの返信がなかったり、既読がなかったりするだけで、

深く傷ついたり、凄く怒ったりして、ネガティブな感情が噴出したりします。


…こじらせないために爆笑

『愛されている』

という前提を身に付けましょう╰(*´︶`*)╯♡


引用おわり。




これもね

ほんとそう思うけど




でも

だからって
必死になってまで
それを身につけよう、とかするのって
それも
また違う感がして。



あ、そうか。

って きづいて 変われるなら

ラッキー ぐらいのもんで。



日々にとりいれられたら 
ラッキー、と。 

ほんと。




こじれてる(とおもわれる)部分は
その必然があって
そうなってる訳で。


だって

そうなってる訳だから。





私は

半分ぐらいは 
ありがたいことに
両親や兄からのおかげで
この前提が ある感じがするけど



半分は

たぶん うけついできたかのような
うたがい みたいな

なんか
どろどろしたものも

どしてもあるよ。



人間

そんな 

ぜんぶがぜんぶ

シンプルにはできてないと思う。


自然の一部でもあるし。


そうおもうの
わたしだけかもしれないけど。





ただ

身体のこと
遅ればせながらようやく
リスペクトしだしてから



気持ちとかも


あ、 偏ってるな って

自分で気づけるようになってきてる感。



感情は
感情、 と 

事象から切り離して

だんだん それを

ただただ 視るという視点も

出来てきてる感じもする。




その感情を出させる為に

その事象が起きてる

って視点もあるものね。









日々そんなことを

自分で

観察して

その時
できることを やって

時には
いろんなお力を
拝借したりもしながら


細々と
自分で自分の
ご機嫌とってる感じ。





なんか

いまは

それが とても たのしい。

美浜町のいのちつむぐ里さんで出会った
季節のデザート。
過日の帰りの新幹線で頂きました。
めっちゃ美味しかったぁ♫