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ネット・ストーカー問題(17) 「重責」
こんばんは。
こそっと雪が降ったようで、毎年、この時期になると萎える私です。
外出も億劫になって、運動不足の危惧もあります。
ふと、アリとキリギリスの童話も、思い出します。
日本には、四季と言いますか、
真冬があるので、他の季節のありがたみも、わかるのかもしれません。
さて、今回のテーマは、以前の「責任」という話の延長です。
少し前の話で、アメブロから、ブログ運営のレポートが届いていました。
最近の記事では、”ネット・ストーカー問題(9)「責任」”に、
アクセスが集中していたようです。
この記事に、なぜ、アクセスが集まったのかと考えているのですが、
別に、他の記事のように、個人論を、さらりと書いていただけなので、
ちょっと、謎だなとは思っています。
もしかしたら、ネット上や、SNS上での対人関係などで悩まれるみなさんが多くて、
たまたま、検索などでヒットをしたのかもしれません。
或いは、「責任」という言葉でしょうか。
この世の中、無責任な人が多いようにも見えることがあるのか、
「責任」というワードに、敏感になっておられるみなさんも、あるのかもです。
例えば、テレビやネットのニュースなどを観ていますと、
毎日のように、旧統一教会と国会議員の癒着の話題が取り上げられ、
そこまで政治の中枢に食い込んでいたのかと思うのと同時に、
政治家のドミノ辞任についても、「責任」というワードを考えます。
戦後の日本の政治の歴史は、事実上、公明党の支持母体である創価学会と、
旧統一教会に牛耳られてきたのかと思えば、言葉もありません。
そして、様々なメディアの報道においても、
政治家や自称宗教家の責任逃れの茶番劇を見ているかのようです。
「責任を取る=役職からの辞任」 → 「他の要職へ(ただの配置換え?)」
こうした構図もあって、国民のみなさんは、
もう少し、怒ってもよいかと思うこともあります。
「責任」ですよね。
その「責任」という意味が、その定義が、
どうも、踏みにじられているようにも、思うことがあります。
あ、同じようなことは、
現在、連載中の「ネット・ストーカー問題」にも、言えるかもしれません。
他人様に迷惑をかけて、その「責任」が取れるのか?という視点です。
例えば、Aさんという健気な女性に、Bさんという正体不明のおばさん?のような人が、
Bさんの妄想や嘘のようなもので、「学歴詐称をしている疑惑が濃厚だ!!」と、
ネット上でも叫んでいたら、Aさんだけではなくて、
Aさんの知人や家族のみなさんまで、迷惑をされることもあるわけです。
さらには、Aさんの会社や職場や、他の人間関係にも、悪影響があるかもです。
迷惑どころではないかもですね。
しかも、1件や2件ではなく、
200件を超えるような悪評を垂れ流していたら、
Bさんの妄想や嘘を信じてしまう人たちも、出てくる可能性があります。
『Aさんだけではなくて、
Aさんの知人や家族のみなさんまで、迷惑をされることもあるわけです。
さらには、Aさんの会社や職場や、他の人間関係にも、悪影響があるかもです。』
繰り返しましたが、Bさんという人には、
この視点や考え方がないのか、こうした行為ができるのかもです。
つまり、自分の妄想や嘘を喧伝することについての「責任」という概念がない?
「無責任な考え方」なので、そうした、非常識な行為ができる?
と、私は考えているところです。
もちろん、幸福の科学という宗教には、
「他人の迷惑など考える必要はない」・・・ という教義はありませんので、
ときに、事例のBさんと似たような行為をされる人たちが、
幸福の科学の信者を名乗っておられたら、それは、基本教義の大きな履き違いか、
そもそも、その宗教の信者ではない可能性を考えるものです。
(かつては信者であっても、破門になったような人たちもある。)
ついでに言えば・・・
一般常識で考えても、事実が確定をしていない出来事について、
あたかも、本当の話のように印象付け、大量の悪評として拡散をしていたら、
人間としてどうなのか?という視点もあります。
それもあって、私には、まともには見えないし、
これまでの人生で、経験をしたことがないケースでしたので、
前回の記事への発想になっていました。
(私たちの視点のひとつです。)
さて、幸福の科学では、嘘を吐くことを、「妄語」と呼びます。
仏教用語のようなものでしょうか。
世の中には、個人論として、
可愛い嘘とか、許せる嘘とか、未熟な嘘とか、あるかもしれません。
私なども、個人論については、
できるだけ、寛容の精神のようなもので、対応をしているつもりですが、
今回の案件については、どのように考えても、無理でした。
なぜなら、今回のようなことを許したら、何でも許さないといけなくなります。
宗教的に言えば、悪魔の自由や暴挙に、賛同をすることになりそうです。
そして、こちらも、個人論ですが、
やはり、定期的というか、常習的に、嘘が目立つような人とは、
関わらないようにしたいと思いました。
言葉を変えれば、他人様に迷惑をかけたり、苦しめるような嘘を吐く人は、
「無責任な人」にもなるでしょうから、そうした人と付き合っていても、
あまり、生産性がないような気がします。
(反面教師などとして、学べることはあるかもしれない。)
ということで、私たちと言いますか、私自身も、
SNS上での発言や投稿については、
より、正語(仏教用語で正しい言葉という意味)を、旨とするべきかと考えています。
※ 「正語」の反対が、「妄語」です。
さて、今回は、以上です。
ありがとうございました。