実は統一教会は最初から「反共」ではなかった(2) | ちゃぬの裏韓国日記

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カルト統一教会と世界支配層との関係をあばく
(統一教会=世界平和統一家庭連合)

実は統一教会は最初から「反共」ではなかった(1)の続きです。

文鮮明教祖は朴正煕が1961年5月に韓国でクーデターを起こした翌年1962年に突然「今から反共だ」と言い始めた。

韓国がベトナム戦争参戦するには「反共思想の普及」が不可欠。文鮮明教祖も朴正煕政権下でベトナム戦争特需に便乗し銃の納品、バルカン砲の開発等、軍需産業に力を入れる。

1958年に駐韓米軍8軍所属の軍人(朴普煕、韓相国、韓相吉(全て36家庭))が統一教会に入信してから統一教会は韓国政府、朴正煕政権との距離が急接近し、その後、KCIAと共に反共(勝共)活動を進める。

■朴正煕政権
1961.05.16 軍事クーデター
1961.06.10 KCIA設立
1961.11.12 朴正煕議長が訪日し池田勇人首相と会談
1961.11.14 朴正煕議長とケネディ大統領と会見(通訳:韓相国(36家庭))
※この会談では韓国のベトナム戦争参戦を断られる
1963.11.22 ケネディ大統領暗殺 
1963.12.17 朴正煕が韓国大統領就任
1964~1973 韓国がベトナム戦争参戦(ジョンソン大統領が承認)


<1961.11.14 朴正煕議長とケネディ大統領と会見(通訳:韓相国(36家庭))>
※朴正煕(写真中央)の後ろが韓相国(36家庭)


(本文赤字部分抜粋)
1958年、私が入教して以来、約6年間、先生は全く摂理的に無意味なみ言や行動はなされなかった。「反共だ、勝共だ」というような言葉は一言も言及されなかったので、私は先生について人類を救うために来られた純粋なキリスト教指導者だとしか考えていなかった。反共指導者、勝共指導者というようなことは、夢にも思っていなかった。反共というみ言を一言も言われなかったからである。
1962年のご聖誕前日の夜だった。夜12時になってご聖誕日となり先生のみ言が始まった。1時と2時の間だったと記憶しているが、36家庭を呼び集めて「今後、幹部は共産主義理論に勝る実力を備えなければならない」と語られた。この時、私は初めて先生にも反共、勝共の面があるということを知った。


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■李相憲(36家庭)の証し
(「統一思想」「勝共理論」を執筆)

私は儒教の家庭に生まれ、1956年に43歳で入教した。

その当時の新聞を見ると統一教会の評判は良い方ではなかった。
評判が悪い時に私は統一教会に入ってきたのだ。
私は新聞を見る時、噂が問題ではなく、教え自体が真理か否かということが問題だという考えだった。
私を導いた人に引かれ統一教会本部に案内され、劉孝元(ユウ ヒョウウォン)協会長から原理を聞くようになった。

私は学生の頃、共産主義運動に加わったことがあって共産主義の唯物史観を知っていたため、復帰原理を聞いたとき、これが統一原理の歴史観であることを悟り、入会を決心したのだった。

私が統一教会に入教してから普段抱いていた色んな疑問の骨格は解決していったが、依然として細かい問題は原理だけではすっきりと解決されないままであった。
そこで先生に直接お会いし質問をした。

先生は部屋に数名いる時は全体に向かってみ言を語られたが、その内容は私の質問に対する回答の内容である時が度々あった。思想的なみ言だったので一般の食口はその意味を分かってはいなかったが、私はきちんと理解できていた。私が質問すれば、その質問に関してある時は単独で細かく説明して下さったりもした。

私が感激したことは、人生の難問題を完璧に明快に解決して下さっただけでなく、民族と人類に対し、また歴史上の多くの聖賢と義人と預言者に対し、限りない憐憫の愛を抱いておられるということだった。

私の目に映った先生の姿は、この世の人間の姿ではなかった。この方は無限の知恵の宝庫を持っておられ、無限の憐憫の愛を抱いておられる聖者であり、神様が人の形となり人間を救うため生まれたメシヤだったということである。

私は心の奥深くで、とあることを誓ったことがあった。それはこの方の思想を体系化させ、世界に広めようというものだった。その理由として、まずこの方を全人類の前でメシヤとして証しすることだった。私のように悩んでいた人間が、この世界にいくらでもいるはずなので、そのような人々を早く救ってあげなければならないと考えた。

統一教会の草創期に感じた様々な事柄があったが、そのうちの一つ、先生は絶対に個人に対し命令はされないということだった。
これは非常に印象的だった。金誰々、李誰々に命令したいことがあれば集会や礼拝の時に皆に向かって「統一食口はこのようにしなければならない」と一括して語られたのだった。

なぜそうされたのかと言えば、直接命じられることは直接主管を意味するからであった。実際、直接命令したとしてもその人がその命令通りに動けばよいが、もしそう動かなければそれが条件として引っかかるからである。

すなわち天の命令に従わなかったという条件が立てられ、一生消えないという意味なのである。未来において悔い改めて良くなったとしても、その霊的履歴書には天の命令に服従しなかったという汚点を残すようになるのである。したがって本人のためにも直接命令をされなということを悟ったのだった。

直接命じたいときにどうされるかと言えば、象徴的な表現を使われたのであった。
その一例を取り上げてみることにする。

ある大学教授が入教し、自分の素晴らしさを表したくて偉ぶっていた。ある日の夜、先生はガラスのコップを小麦粉で一杯にし、その上から水を注がれた。当然水は全部溢れて流れた。全員「何故先生はあのような事をされるのだろうか?」と変に思っていた。

器というのは、その中に何かが入っていれば、他のものはそこに入らない。同じように真理を受け入れたいのならば、心を全て空っぽにしなければならない。心を空にしないで知識をそのまま備えているだけでは、いくら偉大な天の真理だとしても入ってはいかない。

このことを直接み言で語られる時そのまま聞き入れれば良いのだが、聞き入れられないのならば条件に引っかかるため、象徴的に、比喩的にそのようにガラスのコップを小麦粉で満たし、その上から水を注ぐ方法で悟る者だけが分かるようにされたのだった。

また仮説的、未来的な表現も良く使われた。もし誰々がこのようにすればこのようになるという表現法、英語でいえば「If」に当たる。

例えば金という者がいて先生がその者に命じる時、「もし金誰々が伝道に出るとすれば立派な伝道をしてくるだろう」と語られるのであった。
それは命令ではなかった。後に私はその人に会い、先生はどうしてそのような表現をされたのか分からないと言うと、彼曰く、それは「伝道せよ」という命令なのだということだった。

その時私も悟ったのだった。このように象徴的、可能的、未来的に語られることで、「今後このようになるからこれに対し準備せよ!」という意味を伝えておられるのだった。

私が何故このような例を語るのかと言えば、統一思想に関してもこのような未来的表現で命令されていたことを、私も最初は知らなかったということを明かすためである。

1958年、私が入教した地である郡山に、先生が巡回して訪ねてこられたとき、7、8名の食口が集まった中で、「将来、統一主義時代、統一思想時代が訪れる」というみ言を語られた。

私は特に思想に関心を持っていたため、他の人たちもこのみ言を聞いたが、このみ言は私の心に最も深く刻まれたのだった。
その後、私はそのような時代が必ず訪れるということを信じていたが、当時私は地方にいたので、ソウルの教会本部にいる幹部が互いに力を合わせ先生の指導を受けながら懸命に努力し、文化の新たな統一主義時代、統一思想時代を立てるだろうという考えしかしなかった。
しかし、実際には、言い換えれば私にとって命令で、いわゆる未来的表現として語られたみ言だということが後になって
分かったのだった。

私が入教して以来、約6年間、先生は全く摂理的に無意味なみ言や行動はなされなかった。
「反共だ、勝共だ」というような言葉は一言も言及されなかったので、私は先生について人類を救うために来られた純粋なキリスト教指導者だとしか考えていなかった。
反共指導者、勝共指導者というようなことは、夢にも思っていなかった。
反共というみ言を一言も言われなかったからである。
したがって私自身も共産主義運動を行ったことのある過去について誰にも言う必要がなく、話もしなかった。またそのような考えさえも持っていなかった。過去の経験は完全に忘却した状態で信仰生活のみを一生懸命していた。

そういう中1960年のご生誕祝賀会において、先生は多くの食口に証しをするよう命じられた。私は「どうか証しをさせないでください!」と心の中で祈った。
他の人の証しを聞くことは非常に有益であり必要だったが、私が証しをすることは何故だか自分自身を誇りとするように感じられ、私の情緒には合わなかったのである。

午前中は何事もなく過ぎ安心していたが、午後になって再び集まった時、先生は突然、私を呼ばれ、21日断食についての証しをするよう言われた。
結局「祈祷も役に立たなかった・・・」と思いながら壇上に上がって証しをした。

21日間の断食とは、1959年12月1日から21日間行った私の断食のことを言い、神様の心情を体恤するために某食口の勧めによって行ったのである。

当時、先生は、神様の心情を体恤しなければ天国に入ることはできないと説教の都度語られたので、私のような批判的な人間は断食祈祷でもしないと、特に談判祈祷でもしない限り神様の心情を体恤することは難しいと他の人が言うので、決死の思いで断食を敢行した。

そうして21日目になった日の夜、無限の愛を持っておられながらも人間を救うため、限りなく苦痛を受け悲しんでおられる可哀想な神様の心情をほんの少し体恤しては慟哭した。
先生がどうしてそのような慟哭を幾度もなされるかを分かったような気がした。
このような体験が主な内容だった。

その日の夜、再び私を前に呼び出された。この時は過去の共産主義運動について証しをするよう命じられた。先生の命令だったので仕方なく簡単に証しをしたが、私が共産主義運動をしていた事実は誰にも話してなかったのに、一体どうしてわかったのかが大きな疑問となった。

またどうして先生は私にそのような証しをさせたのかも疑問だった。何故ならば先生は摂理に関係しないことはなされないということを分かっていたからである。

それまで私は先生について多くのことを研究していたが、研究してみればみるほどに、先生は勝手に誰に対してもみ言や行動をなされない方であるということがわかった。

その都度、神様のみ旨であるとか、食口の指導に関係があるみ言だけを常にされるのであった。
先生においては摂理的な意味のない、無意味なみ言や行動は一つもされないということが、私の得た結論であった。

したがって私に証しをさせた以上、何か摂理的な意義と内容があるはずなのだが、それが一体何なのかという疑問を持たずにはいれなかった。

これまで私が学生の頃、共産主義運動を行っていたことは誰にも話していなかったのに、先生はそれをどうやってわかったのか?共産主義運動の証しをするよう突然命じられたが、そこに何らかの摂理的な理由があるはずだが、その理由は何なのか?長い間その疑問は解かれないままだった。

それから2年が過ぎた1962年のご聖誕前日の夜だった。夜12時になってご聖誕日となり先生のみ言が始まった。
1時と2時の間だったと記憶しているが、36家庭を呼び集めて「今後、幹部は共産主義理論に勝る実力を備えなければならない」と語られた。この時、私は初めて先生にも反共、勝共の面があるということを知った。


それは私にとって大きな衝撃以外の何ものでもなかった。私は常に事柄について色々と深く考える習性があったので、「いくら共産主義者だとしても、果たして宗教家が共産主義者を憎まなければならないのであろうか?」と常々思っていた。

原理的に考えて見れば、歴史の終末には必ずカインとアベルの対立関係が解決されなければいけないので、最終的には共産主義と民主主義が戦わずにはいられない。

先生は神様の愛を地上で実践される方であるが故、共産主義者までも愛されるはずである。しかし神様の摂理を地上で広げるためには、やむを得ず共産主義と戦うしかないことも事実である。故に共産主義者に対する愛の問題や共産主義理論との闘争の問題は別個の問題である。
このように私自身がまとめたのである。

その日の夜はほとんど徹夜で、ほんの少し目をつぶって起きると劉孝元(ユ ヒョウォン)協会長が私を呼ばれ、「昨夜先生が語られたことをできる人は李先生しかいません。李先生は以前共産主義運動をした経験があるので共産主義について色んなことを良く知っておられるであろうから、勝共関係はやはり李先生がやらなければなりません」と言うのだった。

この時やっと、先生が以前私に共産主義運動をしたという証しをするように言われ、私にどのような履歴があるかを人々に知らせておいて、共産主義の批判を間接的に命じられたのだということが分かったのだった。

このように絶対に個人的には命じることはなく一般的なみ言の中で、その個人が自分の責任分担を感じ悟ることができるよう導かれたことが先生の指導法であった。またそれがその当時の摂理の方式でもあった。

最初に証しをさせておいて、劉協会長を使って私に関する過去を分からせて勝共の実力を備えるよう話をさせた。その時のみ言は36家庭全員に対する一般的なみ言で、個人に対する命令ではなかった。

よってそのみ言を聞いた劉協会長は責任者として、その命令を遂行するために誰かが執筆しなければならないと分かっていのだが、
誰にさせるのかが問題だった。結局特定の人にさせる考えを持たせるよう導かれたと感じたのだった。

その2年も前に先生が私にそのような証しをさせたことは摂理だったいうことを今更になって悟り、またその4年前(1958年)に統一思想の時代が訪れると語られたことも、結局私に対する命令だったということをその時初めて悟ったのだった。

統一思想時代が訪れるという未来的なみ言を語られ、それを一つの使命感として感じるよう導かれたことは後になって分かったことで、それからは統一思想もしくは勝共に関する理論を立てることが私の使命であるということを感じるようになったのである。