文教祖が朴正華氏を背負って渡ったと言ったのは川ではなく海・・・しかも写真は嘘(2) | ちゃぬの裏韓国日記

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カルト統一教会と世界支配層との関係をあばく
(統一教会=世界平和統一家庭連合)

「文教祖が朴正華氏を背負って渡ったと言ったのは川ではなく海・・・しかも写真は嘘(1)」の続きです。

信者の中には文教祖は弟子を背負って「川」を渡ったと思っている人も少なくないようです。
しかし文教祖が弟子の朴正華氏をおぶって渡ったと語ったのは「川」ではなく、「潮の引いた干潟(海)」でした。

文教祖が避難する時に渡った川は「臨津江」と「漢江」ですが、どちらもカチカチに凍っていたため渡れたとしています。

『その次の心配が何かと言えば、臨津江を渡っていこうとすれば水が凍らならければなりません。その時、気温が下がって、臨津江が凍ったのです。そうして、明け方早くに起きて出発したのです。臨津江が凍りついていて、結局川が渡れたのですが、私が一番最後に渡っていきました。そのあとはカットされたのです。カットして全部送り返されたのです。このようにして韓国の地に来ました。』
(「真の御父母様の生涯路程2」より 第四節 興南から釜山まで自由南下)

『しばらく行くと、かちかちに凍った大きな川に出ました。朴氏を自転車に乗せて氷の上を歩いていると、空をたくさんの飛行機が行ったり来たりし始め、砲声や奇襲射撃の音が聞こえてきました。』
(「証言」信仰手記第1集より 金元弼(36家庭)の証し)

『十二月二十七日、雪の降りしきるなか凍った漢江を滑り転びながら渡って、出発してから二十四日目に私たち三人は、夢に見たソウルに辿りついた。』
(朴正華著「六マリアの悲劇」p60より)

凍っているのですから川を渡る際に弟子をおぶる必要もなく、水に浸かりながら渡ったというのも嘘になります。

教会や牧師によっては「海」ではなく「川」を渡ったと教えているところもあるようですが、写真がニセモノだとばれてから、統一教会内では末端信者に対してイロイロ言い訳を考えたでしょう。
写真がニセモノで使えなくなっても写真を絵にしたり、信者に対して文教祖が人類のメシアとしていかに偉大な行動を取ったのかという情報操作(洗脳)は続けられました。


(この写真の川を渡る人物は文教祖でない)



(統一教会が写真は偽だったので絵にする)


(統一教会の作成した文教祖の動画)

<川を渡る写真は1951年1月4日にソウルの漢江で撮影されたもの>
(韓国京畿道非武装地帯HPより)
http://dmz.gg.go.kr/jap/History/h442.asp


((社)ワールドピース自由連合主催の写真展より)
http://www.625story.org/intro.php

(撮影:Cpl J.J. McGinty(US Army))

『中共軍の攻撃で国軍と国連軍は再び撤退しました。中共軍の攻撃を回避しようと忠州の南漢江を渡り、さらに南に行こうとする避難民が年老いた父を背負って冷たい川の水を歩いて渡っています。
日付:1951年1月14日 資料:(社)ワールドピース自由連合
중공군의 공격으로 국군과 유엔군은 다시 철수하였습니다. 중공군 의 공격을 피하려고 충주의 남한강물 건너 더 남쪽으로 가려는 한피란민이 연로하신 아버지를 업고 차디찬 강물을 걸어서 건너고 있습니다.
일자: 1951년 1월 14일 자료: (사)월드피스자유연합』

この写真が1951年1月4日に撮影されたのなら全くの別人です。文教祖が漢江を渡ったのは1950年12月27日ですから。
(それに米軍の撮影者の説明は「父と息子」なので、これも違います)

その時の三人の服装は次の通りです。

『避難しているときの私たちの服装だが、文さんは白い絹のズボンにゴムシン(ゴム製の履物)をはき、黒いオーバーコートを着て、黄色い毛糸の襟巻きを帽子のようにしてかぶっていた。元弼は色あせた軍人用のズボンに運動靴のような軍人用の履物をはいて、犬の毛皮で作ったオーバーコート(日本の関東軍のもの)を着て、頭には日本植民地時代の末期を思わせる黒い色の防空頭巾をかぶっていた。・・・そして私は、作業服の上下に日本軍の靴をはいて、頭には黄色の防寒帽子をかぶっていた。』
(朴正華著「六マリアの悲劇」p57より)

『避難してくる時には、何か着る服がなければならないでしょう。それで、北韓から持ってきた中学高校時代に着ていたオーバーを着ていました。ボタンがずらっと付いています。そのオーバーを着ているのですが、私のこの腕が本当に短ければ良かったのです。寒いのです。それで、袖に腕をこのように入れて、道を歩きました。』
(「真の御父母様の生涯路程2」より 第四節 興南から釜山まで自由南下)

『避難して来ながら、様々なことがたくさんありました。金元弼は、防寒帽をかぶり、誕生日に着るマゴジャ(チョゴリの上に重ねて着る上着)だったか、寒いのでこのようにぐっと折り込んで、私の後ろについてくれば、私は見るからに男性ですから、私の妻に見えるのです。』
(「真の御父母様の生涯路程2」より 第四節 興南から釜山まで自由南下)

『釜山に着くというと、人でもう超満員ね。・・・それで、家は無いんだからね。その時は二月であるから寒いね。ちゃんと夜の仕事をして夜中の十時から十二時頃に帰って寒いんだよね。寒いからオーバーをずっと膝こぶの所までかけて、潜り込んで、海老みたいに丸くなって眠ったことが今でも印象的である。その時被ったオーバーなんか、みんな記念にして残しておくようにと食口に任せたにも拘わらず、ボロみたいなオーバーだと、みんな捨ててしまった。今それが残っていたら、日本にいる君達が見た場合には、見ただけで涙をぼろぼろ流させるような記念になるオーバーだった。』
(僑胞へのみ言葉 1974年5月12日)


写真のおぶられている人物はゴムシンを履いていて、軍靴は履いていませんし、漢江も凍っていません。

それでもこの写真の人物が文教祖に見えるという方は、写真を比較してみて下さい。


(川を渡る男性)


(文教祖の横顔)

明らかに鼻の形が違うことがわかります。