統一教会文鮮明は幼少のころ母親に気絶するほど『こん棒』で叩かれた | ちゃぬの裏韓国日記

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カルト統一教会と世界支配層との関係をあばく
(統一教会=世界平和統一家庭連合)

■統一教会文鮮明は幼少のころ母親に気絶するほど叩かれた『母が「どこの子供が父母が答えなさいと言っているのに答えないでいいと思うのか」と言って激しく叩くのです。一度はどれほどたたかれたのか私は気絶してひっくり返ったのです。母親に何時間も叩かれて気絶したので家で死んだと大騒ぎになった』

母(金慶繼)は、女傑です。大閑良(注:お金をよく使う人)です。閑良という言葉は少し悪いですが、私は母に似ました。前後がまるまると太っています。横からすっと見れば、ぺちゃんこではありません。母は力持ちでした。』
(「文鮮明先生の教育哲学」より 1986年1月26日のみ言葉)


『先生は泣き始めると、一時間では終わりません。それであだ名が何かといえば、「一日泣き」です。一日中、泣くので、「一日泣き」というあだ名がつきました。村のおじいさん、おばあさんたち、みな出てきて見物しろというのです。このように、すべての村を騒がせては、寝ていた人々まで覚めるように泣いたのであって、穏やかに「えんえん」と泣きはしませんでした。大事が起きたように、泣き続けました。それで、のどがはれてかれるようになり、のちには声が出ないほどでした。それから、じっと座って泣くのではありません。しきりに跳び跳ねながら、傷ができ、肉が裂け、部屋が血だらけになるようにしました。それくらいなら、先生がどんな性格かということが分かるでしょう。
 譲歩しません。骨が折れても譲歩をしません。死んでも譲歩をしないというのです。物心がつく前、十代になる前です。母が明らかに間違ったのに、子供に忠告すれば「いいえ!」と言うのです。例えば、私を見て、「一方通行はいけない」と言うならば、張り合って争うのです。すさまじいでしょう。「間違った」と一こと言いなさいと言っても答えないのです。間違っていないのに、なぜ間違ったと答えるのですか。母の性格も大変なものです。一度何かをすれば、最後まで見届けなければならないのです。「どこの子供が、父母が答えなさいと言っているのに、答えないでいいと思うのか」と言って、激しくたたくのです。その母親の子供として生まれた私は、その母親よりももっと激しいのです。後退することができますか。耐えるというのです。何と言ったらいいでしょうか。大したものでしょう。一度はどれほどたたかれたのか、私は気絶してひっくり返ったのです。そのようになりながらも、降伏しないのです。ですから、家で夭折(若死に)したと大騒ぎしたのです。何時間もたたいて気絶したので、父と母が私の前で「オンオン」と泣いたのです。その時私は、「間違っていたのなら、泣くのが当然でしょう」と言ったのです。
 おじいさんもそうでした。祖父も私から忠告を受けたのです。孫を教えるといって、キセルを持って何とか言うので、「おじいさんが孫を訓示するのに、キセルを持って訓示できますか。それがこの家門の伝統ですか」と激しく言い放つから、祖父もどうすることもできないのです。幼い孫を侮ったのですが、「お前の話が合っている。片づけよう」と言うのです。それゆえ、既に数えの十二歳の時から、祖父、母と父、兄弟をみな、私の手で掌握して暮らしました。』

(真の御父母様の生涯路程1)

『今、考えてみますと、一番忘れられないのは、情緒的な面の中でも、お母さんから誉められたことよりも、ムチ打たれたことです。ムチ打たれたことが忘れられないというのです。ムチ打たれるのは、悪いことをしてムチ打たれるのは、当然なことですね。ところが、悪いこともしなかったのにムチ打たれたことが特に忘れられません。先生の性格が、誤ったことがなかったのにお父さん、お母さんからわけもなしにそうなったならば、一歩も譲りませんでした。また、私のお母さんの性格は、私を生んでおいたお母さんの性格ですから、私に負けたいでしょうか? (笑い) 「ああ、この子ったら、これをしなさいって言うのにしないで遊んでばかりいてそれでよいのか」とそのように言って、じっと見ているとこれはだめだというわけです。また、するなと言うと、「それ、だめです」とはむかうのです。一言言って聞かず、二言言って聞かず、三言言ってしないならば、「こいつめ、母親の気をこんなにくさらせるのか」と言っていたその姿が今も目にありありと浮かびます。(笑い) そうすると、反抗するのです。「お母さんは、いつもそうだ。うちのお母さんがどうしてそうなのか? 他のお母さんはそうでないのに」。そうすると、とんでもないと否認していた姿が目にありありと浮かびます。私のお父さん、お母さんは、私が「これ、駄目です」とこう言うともう分かるのです。 』
(故郷 1989年2月12日のみ言葉 韓国本部教会)

『わたしが幼いとき、「お母さん、悔い改めなければなりません。」と言いました。すると母が、「こいつ、何も知らない小さな子が、お母さんをつかまえてどうのこうの……。」と言いますが、そのような話をしてはいけないのです。
 母がいくら言っても、「わたしが知っている母は、そうではありません。」と言うのです。わたしを叩こうとすれば、「叩いてみなさい。」と言いました。
 びくともせずに、気絶するまで叩かれました。逃げません。そのような人です。そうしてそこで気絶しました。母も大変な女性です。
 母の実家は有名な両班の家なのです。そこに行けば、大臣だったかたたちを祠堂に祭ってあり、そこに入っていって、その服を着て遊ぶのが、いちばん楽しいのです。母方のおじに、褒められるよりも、たくさん叱られました。

(第三十九回「真の神の日」記念礼拝のみ言葉 2006年1月1日 韓国・天宙清平修錬苑)


私が書堂に通った時、そこでは訓長が、大慨『論語』のようなもの、『孟子』のようなものを数枚さっと書いて講義をするのです。翌朝必ず、私は習った文章を先生の前で暗唱させられるのです。暗唱することができなければ、むちでしりやふくらはぎを打たれます。とにかく、むちでしりやふくらはぎを打たれたことが思い出されます。その時は、先生の挙げた手が、ぴたっとくっついたらいい、このように思うのです(笑い)。ぶるぶる震えて、それを手放したらいい、ありとあらゆることを考えるのです。
(真の御父母様の生涯路程1)

昔、書堂に通う時、そこで先生から、大概論語や孟子のようなもの何枚かの講義を受けて、翌日の朝に必ず習った文章を先生の前で暗唱するのです。暗唱することができなければ、むちでふくらはぎをたたかれます。いずれにせよ、私がむちでたたかれたことを思い出します。』
(「文鮮明先生の教育哲学」より 1978年10月29日のみ言葉)

最近は少なくなりましたが、韓国は細い枝のようなものでふくらはぎや手のひらを叩いて教育する慣習があります。ちなみに文教祖が通っていた書堂(寺子屋のようなもの)の教師は韓国人(朝鮮人)です。その後、独立運動家の朝鮮人(李昇薫)が1907年創立した地元(定州)の「私立五山普通学校」に入学し、日本人に対する敵対心を教育されます。さらに15歳のときに改宗した改新教(プロテスタント)でも宣教師から神道や神社はサタンであり偶像崇拝(雑神教、多神教)だと教育されます。そしてそれが日本や日本人、天皇や神道に対する思想・思考の基礎となります。
文教祖の故郷の平安北道定州郡は独立運動家(ほとんどがクリスチャン)が多い背景には、欧米の宣教師が積極的に日本に対する敵愾心をあおったことも関係しています。
(参考:「滑稽なる独善主義(統一教会はここまで堕ちたのね)」


実は文教祖は母親に「こん棒」で殴られて気絶していました(恐ろしや・・・)。

私は、たくさんたたかれました。細い木の枝でたたこうとするので、私がこん棒を持ってきて、「これでたたいて良い人にしてください」と言ったのです。私は、母の性格に似ました。火のような性格です。それで、母が、「こいつ。お前が一言間違っていましたと言えばすべて終わるのに、それが言えないのか」と言うのです。そのような人です。ですから、たたかれて気絶し、村中に死んだとうわさが立ったこともありました。
 また、私が泣けば、ただ座ったまま泣きません。あだ名が「一日泣き」です。「五山の家の小さい子が泣き始めると、一日中泣く。父母がたたいたのは間違っている。あの子が村でしていることを見れば、悪いことはせず、村のおじいさんやおばあさん、おばさんたちによくしている子なのに、その息子を苦しめたのだからあのように泣くのだ」と言うのです。一日だけ泣きますか。ひと月でも泣くのです。
 泣けば、足を踏み鳴らしながら一日泣くのです。一時間たてば、もっとわんわん泣くので、みな逃げていきます。ですから、通り過ぎる猫も鶏も静かです。それが鳴けば、こん棒で激しくたたくのです。「こいつ、私と張り合うつもりか」と言って、あの鶏を捕まえて食べよう、あの犬を捕まえて食べようと思うのです。怒りでぶるぶる震えます。一緒に競争するのを嫌うのです。』

(第六回「安侍日」のみ言葉 2004年6月14日 麗水・清海ガーデン)

母親に叩かれて気絶したというのは、てっきり「細い枝」とか「素手」で叩かれて気絶したと思っていましたが、『こん棒』で叩かれていたとは、驚きです。
下手したら死ぬでしょう。
こん棒で叩けという息子もどうかと思いますが、それに乗る(同調する)母親もどうかと思いますが・・・・。

そして意地をはり、相手(両親等)が屈服するまであきらめないのです。そして抵抗するために一日中でも泣くのですが、泣き止むときは血を見るまでだそうです。

『その時は、一銭でビー玉三つを買うことができたのです。わたしも、母親にビー玉を買ってくれとねだってしかられたことを思い出します。
 ここに立っている人(文教祖本人のこと)は、泣くときも、母親が喜ぶようには泣きません。母親が逃げていくように泣き、おじいさんでもだれでも、聞きたくなくて逃げていくように泣きます。泣こうとすれば、みんなが驚き倒れるように泣かなければならないのであって、しくしく泣いて終わるのですか?
 それであだ名が「一日泣き」です。「一日泣き。」と言ってみてください。(「一日泣き。」)「一日泣き」だとうわさになった人です。泣くときは、必ず血を見て初めて泣きやむのです。
 ですから、自分たちが要求することも、間違った要求をしていることが分かるのです。母親が間違っていたり、おじいさんが間違っていたり、父親が間違っていてわたしの気分が悪くて泣けば、それは必ず屈伏しなければなりません。血を見るまでです。

第十六回「七・一節」記念礼拝のみ言葉 2006年7月1日 韓国・天宙清平修錬苑)

その後、成長し成人しても親に叩かれて育った文鮮明教祖は子供も叩いて教育します。
(参考記事:真の家庭の暴力行為
文国進グループ会長も兄弟に殴られて育った


そして韓国男性と結婚させ韓国移住してきた女性信者に対しては夫に殴られても感謝しろと教育します。
統一教会祝福家庭でDV韓国人夫に顔中あざだらけにされた日本人妻
韓国の男は乱暴な気質があるが日本人妻は殴られても感謝の祈祷をせよ(by文鮮明)

しかし反面このようなことも言っているのです。

『もし係長から部長になった場合には、多くのお金が入るのです。しかし、外交をしないと出世できません。上司や部下を顧みないと出世しないのです。それをしないで、ただ仕事だけをしていたのでは万年係長です。「金を稼ぐように」と、いくらラッパを吹いて太鼓を叩いても、それは通じません。女は、家庭生活がそう豊かでなくても、旦那さんが外交できるような資金を補給してやらなければなりません。分かりましたか? (はい)。そうすると、旦那さんが「いやー、済州島には二人で行け、その時はいくらでも出していいよ」と言うのです。立派な旦那さんをつくることは、もう問題ありませんね。殴られるようなことは絶対ありませんね。こういうことをやって、殴られた場合には、もうその家にいる必要はありません。風呂敷を包んで先生の所へ来なさい。もっといい旦那さんを紹介してあげます。これで、旦那さんはもう勝利できますね? (はい)。』
(現地の整備(十六万女性修練会)1993年12月21日 韓国・済州研修院)

つまり簡単にいうと『努力しても夫が殴るようだったら離婚して再祝福でまともな男性と祝福してあげましょう』ということ。
まさに「アメとムチ」です。
み言葉に一貫性などはないのです。
問題があると、言い訳のようなみ言葉を発して信者を安心させますが、あくまでその場限りです。その後は、また信者の引き締めにかかります。

実際は韓国の夫に暴力を振るわれてもただ「耐えろ、祝福を壊すな」といわれることが多く、日本女性信者の中には逃げるようにして日本に帰ることしか身を守ることができない女性信者もいましたし、今でもいます。