金の御父母様像って偶像? | ちゃぬの裏韓国日記

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カルト統一教会と世界支配層との関係をあばく
(統一教会=世界平和統一家庭連合)

文教祖夫妻は神になったのでこれからは「写真」ではなく「金の像」で崇拝することになったそうです。
(参照:文先生夫妻を金の像にしてして奉ることに疑問を感じないか
   金の子牛像は偶像ですがプレゼントとしては大歓迎(by文鮮明)
   文教祖の写真は魔よけ?


統一教会信者は『ほかの宗教はどうであれ、統一教会は偶像崇拝はしない』と思っていたはず。

しかし案外、キリスト教で言うところの偶像崇拝は認めていたりします。

もともと文教祖は厳格に偶像崇拝を否定しているわけではないようで、韓国の先祖崇拝も文教祖は「キリスト教が韓国の先祖崇拝を偶像崇拝だというが、韓国の先祖崇拝(祭祀)は神公認だ~!」という始末です。そのくせ日本の先祖崇拝は否定していますが。
(参照文教祖の写真は魔よけ?

それに仏教の仏像なども偶像崇拝ではないといっています。(七男の亨進世界会長は、統一教会はキリスト教ではなく、仏教に近いと発言したそうですが。)
(参照:万有原力と良心に宿る神

統一教会がキリスト教で無くなれば、偶像を強力に否定する必要もなくなるので、路線変更したのでしょう。

しかし、その前からもともと偶像の定義に関してはあいまいでした。

それで最近になって、統一教会から正式に公文がでて、めでたく統一教会も仏像・・・いえ、ご本尊様(金の御父母様像)をはれて発表し、偶像崇拝の仲間入りを果たしたのでしょうか?
まだ光言者のオンラインショップでは「金の像」は販売されていないようです。写真は販売されていましたが。

(金の像についての統一教会の公文)
『カトリック、仏教、キリスト教など世界の主要な宗教は、創始者の肖像画より3次元的な像に重きを置いてきた。(中略)それは信仰者が信仰を成熟させ、霊的に創始者を見るようにすることを意図していた。今まで、統一教会は真の御父母様の写真に重きを置いてきた。しかし、真の父母様は御言葉を実体的に完成した、神の実体的体になった。そのような御父母様の栄光高揚し賞賛し、それを心情的に相続するため、人間の目で見る写真の代わりに、霊的目で見て心情で交流する三次元的な像を必要としている。』
http://ameblo.jp/pacificera/entry-11203799333.html

ミセスキムさんがしきりに「文夫妻は神格化された」とか、書いていたことがこれでやっと理解できました。こういうことだったのですね。

ところで文教祖は北朝鮮の金日成を神格化することについてこのように述べています。

『共産主義とは何かと言えば、唯物思想によって宗教を統一しようとするものです。キリスト教の形態とそっくりに生じて、外的問題を中心とした唯物的宗教形態のような集団が共産主義なのです。人間が神様を身代わりしようとしているのではないですか。金日成をお父さんとしてつくっておいたのです。そして絶対視しています。仮想的に神格化させるのです。それは、宗教思想と同じです。外的な形態もそっくりです。内容も全部、宗教思想のような内容を中心として単一化させています。ですから、偽物と本物はそっくりなのです。』
(「神様の摂理から見た南北統一」より 文教祖のみ言葉)

共産党の人間の神格化は否定しています。
でも文教祖の神格化はOKです。
韓国の先祖崇拝はOKで、日本の先祖崇拝はサタンです。
仏教の仏像崇拝は偶像崇拝ではありませんが、日本の自然崇拝は偶像崇拝です。
イエスを神格化することは否定して文教祖の神格化はOKです。

まあ、こういうあいまいな言動を取るのは、統一原理自体が全ての人間に神性が内包されていることを説いているからだと考えられます。(神性・万有原力等)

日本人には全てのものに神が宿っていることは感覚的に知っているので、この創造原理には案外スパークする人が多いでしょう。

これをわかりやすく解説している統一教会の信仰指導書があったので掲載します。

『「統一原理」はこれに対して「イエスは人間だ」と明確に答える。それではイエスの神性を否定しているのかというとそうではなく、神性はもともとすべての人間に宿っているものであると主張するのである。「統一原理」によれば、もともと神と人間は親子の関係であり、ちょうど子が親に似るように、人間は神のごとき性質を宿すはずであった。しかしこれは人間が神そのものになるという意味ではない。』
(神学論争と統一原理の世界 1997年9月1日発行 魚谷俊輔著)

もともと統一教会はどっちでも取れるような教義なんですよ。
語る相手に合わせて変えられる・・・・とでも言いますか。

原理講論キリスト論では・・・

イエスは創造目的を完成した人間として、神と一体であられるので、彼の神性から見て彼を神ともいえる。しかし、彼はあくまでも神御自身となることはできないのである。神とイエスとの関係は、心と体との関係に例えて考えられる。体は心に似た実体対象として、心と一体をなしているので、第二の心といえるが、体は心それ自体ではない。これと同じく、イエスも神と一体をなしているので、第二の神とはいえるが、神御自身になることはできない。そういうわけで、ヨハネ福音書一四章9節から10節のみ言どおり、彼を見たのは、すなわち、神を見たことになるのも事実であるが、このみ言は、イエスが正に、神そのものであるという意味で言われたのではない。』
(原理講論キリスト論)

原理講論創造原理の個性完成した人間は・・・

『神を中心として心と体とが創造本然の四位基台を完成した人間は、神の宮となって(コリント・三・16)、神と一体となるので(ヨハネ一四・20)、神性をもつようになり、神の心情を体恤することによって神のみ旨を知り、そのみ旨に従って生活をするようになる。このように個性を完成した人間は、神を中心としたその心の実体対象となり、したがって、神の実体対象となる。ここで、その心と神は、このような実体対象からくる刺激によって、それ自体の性相と形状とを相対的に感ずることができるので、喜びに満ちることができるのである。そうであるから、個性を完成した人間は、神の喜怒哀楽を直ちにそれ自体のものとして感ずるようになり、神が悲しむ犯罪行為をすることができなくなるので、絶対に堕落することがない。
(原理講論創造原理)

全ての人類が神で、文教祖だけが未来永劫に神だというわけでは無いということです。
それに祝福を受けたら、イエス以上と文教祖のみ言葉もありますし。おまけに二世などは、まさに文教祖と同じ「ひとり子」扱いにならないと変なんですが。

個性完成したら、神の悲しむ犯罪行為もせず、絶対に堕落しないとあります。
でも、文教祖の息子・娘の中には男女問題が複雑な人や、離婚・再婚の問題があります。麻薬もありました。

面白いみ言葉がありました。

『そしてついに祝福されて子供を生むと、その子供は、原罪と関係のない神の血統圏に生まれて、直接神の国に入ることができるというのですが、しかしその子供の両親に、「私は完全に原罪から解放された」という確信なくして、どうして自分の子供を罪なき子女として生み出すことができるでしょうか。そして実際にそういう確信を心からの実感としてもつようになることは生易しいことではありません。』
(創立以前の内的教会史 1977年5月1日 NYベルベディア)

祝福で原罪が無くなったという思い込み(信仰)が足りないと、子供は原罪無く生めないようです。

統一教会の信仰は「思い込み(自己暗示)が強くないといけないようです。
そういう点では、文教祖はこの思い込みが足りなかったのでしょうか。

原罪清算は思い込みで解決します。
(どっかの宗教と同じで、信ずれば救われる~って感じでしょうか)

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