文教祖の拷問による体の傷の真相(背中の傷はなかった)(2) | ちゃぬの裏韓国日記

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カルト統一教会と世界支配層との関係をあばく
(統一教会=世界平和統一家庭連合)

文教祖の拷問による体の傷の真相(背中の傷はなかった)(1)」の続きです。

文教祖は過去に六回逮捕・投獄されていると教会は公表しています。

① 1944年10月 京畿道警察部(日本での学生時代の抗日運動容疑で逮捕、拷問)
② 1945年10月 平安北道郭山警察署(使っているお金が異なったため拘束)
③ 1946年8月16日 大同保安署(李承晩のスパイ容疑で逮捕、拷問)
④ 1948年2月22日 内務省に拘束(その後興南刑務所(社会秩序紊乱罪で逮捕)二年八ヶ月)⑤ 1955年7月4日 西大門警察署(兵役法違反容疑で不法監禁)
⑥ 1984年7月20日 米国ダンベリー連邦刑務所(脱税容疑で有罪判決)十三ヵ月間


上記教会資料によると最初に逮捕・投獄・拷問されたのは、日韓併合時代の京畿道(ソウル市外)の警察署です。終戦前の話のはずです。
しかし文教祖はみ言葉の中で「初めての逮捕」のことをこのように述べています。

『今日、突然ここに呼ばれたので、どうして呼ばれたのか、わからない人もいるでしょう。あなた方の多くは「先生は、何回牢屋に入ったのか」と不思議に思う人もいるでしょう。私が最初に牢屋に入ったのは、二十三歳の時で、二十四歳で出ました。それは一九四七年、北韓でのことでした。今日は、二回目の時の解放記念日です。今は、統一教会も創られて、み旨を成していますが、私が牢屋に入った頃は多くの困難がありました。そのことを思う時、私のために神御自身が、どんなに悲しい思いをされたことでしょうか。』
(神の悲しみと人間の無知 1975年10月14日 ベルベディア)

初めて拘束(収監)されたのは、「文教祖が23歳のとき」ということは「満」でだとすると1943年、「数え」だと1944年の日本統治時代になりますが、なぜか場所は1947年の北朝鮮と述べています。(文教祖の話では、京畿道警察部の前に日本の東京の戸塚警察署で尋問を受け拘束されているはずですが、「七死復活」として列記しなかったのをみると日本留学時、日本本土では拷問は受けなかったのでしょう。)

しかし文教祖が満23歳だと1943年ですし、数えの23歳だと1942年となります。
そうすると終戦前に日本人に逮捕拷問されたとする1944年10月だと文教祖は満24歳(数え25歳)なのです。これもまた合いません。

多分、推測ですが本当に逮捕・投獄されたのは、1947年頃の北朝鮮なのでしょう。
すべて「日本のせい」にするために嘘をついている可能性が高いです。

この初収監のときのことを説教した文教祖の年齢は55歳。まだボケるには早い年齢です。三十年ほど経っているので記憶違いということも考えられるでしょうが、年齢も年度も一致しないのはおかしな話です。

そして終戦前の日韓併合時代の1944年10月に逮捕され、消えない傷を負うような拷問だったのであれば、「最初に牢屋に入ったのは一九四七年、北韓でのことでした」と言うでしょうか。

さて『文教祖の拷問による体の傷の真相(背中の傷はなかった)(1)』でも文教祖の背中には傷がなかったということを書きましたが、他の信者の証言がありましたので掲載します。

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ヨシュア2002の日記カルトからの自由 2008年1月11日の記事より
http://kokoro.mo-blog.jp/weblog/2013/04/20080111_e3c9.html

綺麗だった文鮮明の背中の話

ジャーナリストのT氏から聞いた話。
統一協会内で伝承されている文鮮明の美談に、拷問で体中傷だらけだったというものがあります。久保木修己元日本統一協会長(故人)が文と一緒にお風呂に入ったときにみたという証が伝わっているというのですが。
霊感商法が盛んに行われていた当時(今も形をかえて行われていますが)、霊能者役に人事されていた人物がいます。その方はいわゆる氏族復帰を完了している方で、ご自身も財産を捧げていましたが、捧げさせることでも実績をあげていたので、特別に文鮮明一家と海水浴にあずかるというご褒美をいただいたそうです。
プライベート・ビーチだそうです。
その時に実は写真を撮っていたのですね。
その写真には傷跡などなにもない綺麗な文鮮明さんの背中がうつっているとのことです。
つまりあの美談は嘘だという雄弁な証拠なのですが。
統一協会の元民青同盟員だったというなんとかいう広報部長(いまど忘れしています)は、それを
「お父様は超能力でその傷跡をきれいに直してしまわれたのだ」と抗弁していると聞きます。
それならば、これはどうなのでしょか。
わたしは信者時代に、「お父様は虫歯の治療を日本でされました。その治療をする光栄にあずかったのは食口のモタイ兄という方です。」と聞いたか読んだかの記憶があります。
超能力で傷跡を消せるのなら何も虫歯の治療などしなくても超能力で直してしまえばいいものを。つまり超能力などできないのです。
それを統一協会は次のように抗弁します。
「お父様は奇跡も起こせるのだけれども、それをしてしまうと蕩減が重くなるのであえてしないのです」とか云っていました。
しかし聖書では奇跡を起こせるとか起こせないとかそういうことをメシアの証拠とする考え方は否定されています。神学をしらない人の発想なのですね。
要するに、嘘がばれても言い逃れを繰り返して逃げ切ろうとしているだけなのです。
霊能者役をしていた食口は、ある事件が決定的なきかっけとなり、文鮮明の正体を目撃してしまいます。それで自分が信じていた文がとんでもない異常者であると判断せざるを得なくなり自ら脱会されたと聞き及んでおります。

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上記証言と最初に投獄されたのが終戦後の北朝鮮だというみ言葉が正しいのであれば、下記のみ言葉の「体中の傷は既成教会がつけた」という内容と一致します。
もし傷があったとしても、日本併合時ではないでしょう。

本当は監獄のことはすべて忘れなければならないのですが、殴られて痛かったことを記憶しているのです。先生の体には多くの傷が残っているのです。既成教会が与えた傷です。先生がもし人間的に生きるならば、彼らの腹を切り裂いて、禿鷹の餌にしても足りない気持ちです。先生の性格は、そのように強烈なのです。少年時代にも、もし先生の村で誰かに殴られたかわいそうな人がいれば、先生はその人を訪ねていって、責任をもってその人を殴った者を処分する魁首の役をしたのです。先生は火のような男なのです。このような先生を監獄に入れたのですから、たとえ無罪釈放したとしても、その日その時のことを、長い公文書にして発表し、謝罪しなければならなかったのです。』
(神のみ旨を中心とする宗教圏の統一 1988年10月14日のみ言葉)

そうです。最初に逮捕・投獄されたのは、北朝鮮に布教しに行ったときだったのです。
北朝鮮の平壌で布教活動したときに既成教会に通報されて逮捕されたのですから・・・・・。
共産党政権下ですから、拷問は過酷を極めた可能性は十分あります。

結局、日本信者に贖罪意識を植え付けるために、また韓国人には日本を仮想敵国にしたてあげるために話をすりかえたのだと推測できます。

「文教祖の拷問による体の傷の真相(背中の傷はなかった)(3)」に続く