統一教会の文亨進世界会長 北朝鮮訪朝および金正日弔問まとめ(2) | ちゃぬの裏韓国日記

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カルト統一教会と世界支配層との関係をあばく
(統一教会=世界平和統一家庭連合)

■統一教会の文亨進世界会長とともに金正日弔問時に献花を捧げた人物は・・・・

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北朝鮮平和自動車の朴相権社長です。この人物が橋渡しで文亨進世界会長の2度の訪朝を可能にしたのでしょうか?。平和自動車は統一教会70%、北朝鮮30%の合弁会社です。

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<文教祖の平和自動車に関してのみ言葉>

1991年11月30日 金日成と会談のため北朝鮮訪問

1991年12月5日 文教祖は北朝鮮の尹基福委員長と共同声明書の署名し、更に金達鉉副総理と経済協力に関する合意書に署名
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1991年12月6日 文教祖夫妻・金日成主席と会談(10:30~13:00)2時間半
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1998年
統一教会70%、北朝鮮30%の合弁会社で「口笛」という名の車の生産開始


2000年
『今、平和自動車工場をつくっているでしょう? (「はい」)。それはそのときに約束したのです。十年前の約束を守るのです。契約をしたならば、契約を成さなければならないのではないですか?。それを放り出してしまう人は、背反者になるのです。ですから、わたしがつくった環境がどんどん大きくなっていくので、このままいって大韓民国がそこと一つになると自分たちが困るのです。「その前に」と思って、自分たちからわたしたちに与えるようになっているのです。
 現代があらゆることをして、金剛山観光などを行っていますが、目的は自動車工場を建てることです。しかし、いくら交渉してもできません。これは、金日成主席が生きている時の遺言として残した言葉であり、遺訓事業となっているので、それに反対する人は首を切られるようになっているのです。』
(第41回「真の父母の日」記念礼拝の御言 2000年4月5日 九里市 中央修練院)


どうも1991年に文教祖が金日成主席と会談した際に「自動車工場誘致」を約束していたようです。


2002年
『わたしは、以北(北朝鮮)に行って、母の墓参りをしながら、「わたしが、ここに来たのは、金日成の徒党たちが願い、その心で意図することのために来たのではありません。わたしが、ここに来たといって、母の墓を案内してくれたので、母の墓参りに来て、涙を流す……。」と報告しました。
 先生の姉と妹が、断腸の思いで痛哭するのです。「お母さん。」と言いながら、「あれほど愛していた息子、お兄さんが来ました。」と言い、「弟が来ました。」と言うのですが、そこに立って、胸が崩れ落ちようとするのを止め、涙を流さないようにすることが、どれほど大変であったでしょうか? 北朝鮮に行って、涙を流さなかったのは、初めてです。
 そして、わたしが祈祷したことがあります。
 「わたしが、ここに来たのは、父と母を慰労するための個人の訪問ではありません。以北において、二千万の同胞を生かすために、三十八度線を取り除き、万国が解放の自由天地を迎えて、南北にいる兄弟たちが共に集い、国境を越えて、どこに行っても、その兄弟たちが友愛を保護し、孝子を保護し、息子、娘を愛する父母の愛を保護することができるようにするためです。今、その天地に向かう途中にいるので、そのような天地になるとき、初めて息子として訪問し、涙も流し、父母様を慰労してさしあげます。その日までお待ちください。」と、祈祷したのです。
 世の中の人たちは、「文総裁は、なぜ、以北に平和自動車(の工場)をつくるのか?」と言います。先生には、“かかったお金を一銭でも取り戻そう。”などという考えはありません。』
(第六回「七・八節」記念礼拝の御言 2002年8月15日 九里市中央修練院)



2006年
ベトナムにも車を造る工場があり、北朝鮮にも工場があるのです。共産圏だったベトナムにも、ホー・チ・ミンが死んでいないときに入っていって、工場をつくりました。北朝鮮にもつくったのです。
 平和自動車のうわさを聞きましたか? 今では、韓国製品が米国製品に負けない車を造るのは問題ありません。車の技術も日本に追いついたのです。』
(第四十四回「真の万物の日」記念礼拝の御言 2006年5月27日 韓国・天宙清平修錬苑)


ベトナムの自動車会社名は「メコン」、北朝鮮の自動車会社は「平和」です。