文教祖いわく「アダムとイブは架空の人である」ならば堕落による原罪は噓? | ちゃぬの裏韓国日記

ちゃぬの裏韓国日記

カルト統一教会と世界支配層との関係をあばく
(統一教会=世界平和統一家庭連合)

■1965年2月1日に文教祖が「アダムとイブは架空の人である」日本の信者に語っています。しかし、その部分はみ言葉集として発行されるときにはカットされました。アダムとイブは架空の人物であるならば堕落による原罪は噓になってしまします。


<1965年2月1日のみ言葉(編集前)>

『昔、先生はこういうこと、まあ五年ぐらいして来たかな。だから普通、平均睡眠の時間は二時間。だから最初はそういう過程は不快が多いから、その恵みの時間がなければその環境を打開して行くわけだね。今はそういうことじゃない。君たちのそういうま、そういうその霊薬というね。霊薬、霊薬のその高いとこに押し込んで、そうして力して祈れば天の資格、得るんですよ。ああっとね。いかにいくら強いといっても怖かった。昔はそういうことたくさんあったんですけど今はそうしなくても現の苦労を通してね環境を通して話をすれば言葉がでれば、その相対格として万物は自体が生まれるような環境になった。神の言葉によってすべてのものが生まれて来たように原理の言葉によって環境自体が何の証明もなくしてこの環境でもってその世界が言葉の結果のものができるような時代になっておるというんですね。だからまあ   まあ世界は神なんだね。だから伝道してみてわかるよ。昨年より今年は違うと。厳然と社会のその良心的なその心のまあ持っておる人たちは自分も知らずに急角度にこう回っている。それは社会の風として新しい方向を生み出している。でもそれで済めばそうなってくるんですよ。間違いなくなって来る。だからもう今後青年たちはね今までそのなんですね、ツイスト、踊りなんかはもう世界的なその流行なったでしょ。こちらでもそういう踊りするでしょう。ツイスト、高校生のなんかもう、これはもう激しい。それツイスト、ツイストは何かというとよ、という。よじるというのはこれ蛇の蛇の踊りである。(「う―ん」)。最後の踊り、最後の踊り。堕落自体のその二〇、二〇以下のそのなんですね。アダムとイブが堕落した時のその堕落して天使長が踊り出した踊りみたいのがこれだ。(笑い)。興奮して踊ったらいけないよ。(笑い)。だからこれは笛の音に聞こえるんですね。これはもう世界を     。その踊りでつかまってずいぶん堕落したでしょ。だからもう成約時代になったんだから米国なんかもうこの恵みを            まあ                  だね。       公園なんかでも性の限りを堂々しようとしている。アダム、アダムとイブは架空の人である。それはもう若者たちはね、そういうまあ誤解するなというのがあれば、性、それでそれで堕落したその性の結果が世界的に結ばれたという点がある。だからそれに対しての裁きが当然来なければならない。だから神のそのある財産持って、それ一体化したんだから悪の決意の来たれば善の出発があると。そういうふうに言っている。だから世界は         。だが最近は教会の青年たちは、まあまだそれなりにはまあ再堕落はしないでしょ。えっ?(「はい」)。だからまあ今後統一教会員としては一番重、重大な罪は何かというと姦淫である。姦淫である。これは許されない。姦淫。(「淫行の罪です」)。まあ今までのその時はまあ先生のその何ですね、許されるんですかね。君たちはみんなどうせこのこういう問題は天の方にすべてを報告しなくちゃならない。先生が今それ聞かないと聞かないとしても君たちはもう書き出してそのあれもう報告しなくちゃいけない。早く報告しなければ良心おいてにその何ですね、呵責。(「呵責」)。呵責ですね。だからだからそういうそのあれを贖うためにそれ聖酒という。聖い酒。あれをまあ本部で造ったわけなんです。これがこれ蕩減原理をすべてのその条件をしてあれをつくらなきゃならない。それにはまあその先ほど私、ちょっと持って来たでしょ。それが大変なんだ。それそれは結婚式の時使う聖酒なんだ。それは日本の最高の酒である。それは       だから、だからですね、実体形象、復帰の過程、象徴、形象、実体。そうでしょ。だからこの今の実体、形象、象徴。この過程が過ぎればこの復帰の条件も形象の時代が来る。今はいかなる時代かというと象徴の時代に入っていると。       。反対だ反対になってくる。要するにまあ三年間のその戦いこれ実体の戦いなんだと。それが現実のその生活の環境において我々の生活の中心として、一個人を中心とにはまあその先ほど私、ちょっと持って来たでしょ。それが大変なんだ。それそれは結婚式の時使う聖酒なんだ。それは日本の最高の酒である。それは       だから、だからですね、実体形象、復帰の過程、象徴、形象、実体。そうでしょ。だからこの今の実体、形象、象徴。この過程が過ぎればこの復帰の条件も形象の時代が来る。今はいかなる時代かというと象徴の時代に入っていると。       。反対だ反対になってくる。要するにまあ三年間のその戦いこれ実体の戦いなんだと。それが現実のその生活の環境において我々の生活の中心として、一個人を中心として、この歴史的すべての問題をそのまあ掲げて解決しなきゃならないこの重大な問題がある。あるということはもう原理でないとわからない。だからこの原理がもしもでなかったら、永遠な永遠までこの世界はサタンの世界に行かざるを得なかったというんですね。誰がこういうふうにこういう蕩減というこのこの内容、誰が誰が知るかというんですね。だからまあ君たちが本当にまあ霊界通じて祈ってみれば、みると思い出してみれば・・・・・』
(名古屋教会における御言葉1965年2月1日)



このみ言葉で文教祖は『アダムとイブは架空の人である』と述べています。
しかし、このみ言葉を元に2002年に発行したみ言葉集にはこの『アダムとイブは架空の人である』という部分はカットされています。

「アダムとイブは架空の人である」のあとに「若者たちはね、そういうまあ誤解するなというのがあれば」と続くので何に対して誤解しているのかという解釈によって話は変わってきますが・・・・。

このみ言葉が収録されているみ言葉集

『文鮮明先生の日本語による御言集 第一集』(2002年10月2日発行 光言社刊)

一、神の目的と我々の目的 1965年1月28日 本部教会
二、統一旗授与式での御言 1965年1月29日 本部教会
三、統一旗授与式後の和動会および御言 1965年1月29日 本部教会
四、本部教会での御言 1965年1月30日 本部教会
五、イエス様の最期と我々の覚悟 1965年1月31日 本部教会
六、本部教会での夜の御言 1965年1月31日 本部教会
七、神とサタンの境に立っている我々の責任 1965年2月1日 名古屋教会
八、名古屋教会和動会での御言 1965年2月1日 名古屋教会

九、名古屋教会出発前の御言 1965年2月2日 名古屋教会

$ちゃぬの韓国日記


統一教会員、しいては人類にとっての最大の罪は「姦淫」であるとみ言葉で述べていますが、反面、文教祖自身は「まあ今までのその時はまあ先生のその何ですね、許されるんですかね。」と姦淫については罪はないと述べています。

自分の姦淫だけは「聖なる姦淫」であるかのように言い訳しています。

文鮮明教祖の長男の嫁であった洪蘭淑さんは著書「わが父文鮮明の正体」でこのように、文教祖の不貞(浮気・不倫)を下記のように記しています。

『私は孝進の(浮気の)主張を直接「お母様」にぶつけた。彼女は怒り、同時に涙を流した。彼女は私に言った。このような苦しみは自分で終わりになるように、それが次の世代には伝わらないようにと願っていた。彼女は請け合った。「真のお母様」ほどに、夫に浮気される苦しみを知っている者はいない。私はびっくりした。私たちは何年ものあいだ、文鮮明の情事と、彼が婚姻外に作った子供たちの噂を聞いてはいた。しかし、ここで「真のお母様」が、噂が真実であることを確認しているのだ。
 私は彼女に、孝進が自分がだれとでも寝ることは「摂理」である、「お父様」の浮気と同様、神から霊感をあたえられたものだと言っていると告げた。「いいえ、お父様はメシアです。孝進は違います。お父様がなさったことは神のご計画でした」文鮮明の不貞は、彼女が「真のお母様」となるために受けねばならない苦しみの道程の一部だった。「孝進には浮気をする言い訳はありません」と彼女は言った。』
(洪蘭淑著「わが父文鮮明の正体」P251)


浮気に対する文教祖の言い訳・・・・・

『文夫人は孝進の(浮気の)主張を「お父様」に話し、文師は私を自室に呼びつけた。「お父様」はくり返した。自分の過去に起こった(浮気の)出来事は「摂理」である。それは孝進とはなんの関係もない。文師からこのことを直接聞かされて私は当惑した。混乱もしていた。もし韓鶴子が「真のお母様」なら、もし文鮮明が地上における完璧なパートナーを見つけたのであれば、彼(文鮮明)の不貞は神学的にはどう正当化されうるのだろうか?
 もちろん私は尋ねなかった。しかし、文師夫妻の関係について新たな認識を得て、その部屋を出た。文夫人がこれほど絶大な影響力をふるうのも不思議はない。彼女は文鮮明の不貞(浮気)を暴露しなかったので、彼はこれまでの歳月ずっと、そのことで夫人に借りがあった。彼女は文鮮明の不貞と裏切りに対して休戦協定を結んだ。お金、世界旅行、人びとからの崇拝で、おそらく彼女には充分な代償となったのだろう。』
(洪蘭淑著「わが父文鮮明の正体」P252)



もし文教祖のいうように「アダムとイブは架空の人である」というならば堕落による原罪発生も架空の出来事になってしまいます。

そして自分(文教祖)が再臨のメシアで「原罪を血統転換で清算」できるという理論も成立しなくなってしまいます。

ということは、これまで文教祖が行ってきた姦淫はなんら神聖なるものではなく、ただの「セックス好き」という説明以外のなにものでもなくなってしまします。


そして孝進氏の再堕落はみ言葉ではどう説明されているのでしょうか。

<再堕落>
他の罪は何でも許す。しかしその原理をわかって犯している時には許しがない。それはアダムよりも悪い、サタンよりも悪い。何故か。サタンが蘇生、長成のその過程で、未完成過程におきまして堕落した。完成の心情世界を教えられている君たちにおきまして犯したらサタン以上の地獄に行く。これは永遠に。だからサタンも笑う。サタンも。「ああ、私は長成期で神の心情を犯したけれど、君は完成期で神の心情を犯したんだから私より悪い」。サタンまで讒訴する。わかりますか? だから自分の純情なるこの心情は、本当に貴い。』
(名古屋教会和動会での御言 1965年2月1日名古屋教会)