清平祈祷院の前身は「ソウル三角山の重生祈祷院」 | ちゃぬの裏韓国日記

ちゃぬの裏韓国日記

カルト統一教会と世界支配層との関係をあばく
(統一教会=世界平和統一家庭連合)

<韓国ソウル・三角山の重生祈祷院>
1967年8月28日 重生祈祷院創立

『その後ソウルに帰って、再び座席に行こうとしたが、先生が重生祈祷院に行くように言われたので、三角山に行った。そこにはたくさんの祈祷院があり、祈祷しに来る信者たちが連日列をなしていた。その中には執事、祭司、長老、はなはだしきに至っては牧師までいた。彼らの大部分は三角山の重生祈祷院に行けば、「再臨主様に会える」とか「万王の王に会える」と言う声を聞いたり、イエス様とは違う韓国の服を着た四〇代の青年が現れたという啓示を受けた。また「新約時代にイエス様がマリヤの体から出たように、再び来られる主様もやはり人間の体を通じて来る。雲に乗って来るというのは、雲はきれいなことを言うのであり、汚れがなくきれいな聖徒の中に来られるというみ言だ!」という啓示を受けた人もいた。
 彼らは急いで上がって来ても、統一教会であると知って「異端教会」と、繰り返し、繰り返し言いながら、急いで降りて行くのであった。また「こいつらの教会は早くつぶしてしまわなければ」と、大きな声で叫びながら降りて行くなど様々な人がいた。
 キリスト教信徒だけでなく、すべての良心的な人と篤実な宗教人たちは、すべて啓示によって訪れて来た。そのたびごとに私たちは、一度たけでも聞いてみてから行きなさいと勧めてみたが、頑として聞かないという人が大部分であった。このような切ない光景を眺めるたびに胸がつぶれるようで、二千年前イエス様を中心として起こったことが、目にはっきりと見えるようだった。彼らの偏狭さと、神様に対する信仰の無知を痛嘆し、天のみ旨の成就が差し迫っていることを実感した。
 その後一・二一武装ゲリラ事件で、三角山にある祈祷院はすべて撤収することになった。

(「前もって知り、前もって呼ばれて」元生金の証)

<日本・宝塚の重生祈祷院>
1968年5月11日 重生祈祷院開設
館長:久保木修己



■韓国キリスト教とシャーマニズム(降霊・霊媒信仰)が融合した祈祷院と按手(霊的治療)

<韓国のペンテコステリズムにおける「祈禱院運動」の展開(キリスト教土着化論の考察)渕上恭子 より抜粋>

朝鮮のキリスト教史にあって、民族の受難の歴史を背景に、熱烈なリバイバル運動が展開されてきた背後で、「祈禱院」において神秘主義に傾倒した異端キリスト教が出現してきた。
朝鮮キリスト教史の表舞台で、民族の霊的救済を訴えるリバイバルの炎が燃え上がっていた一方で、「祈禱院」では、亡国の不安と鬱憤を内向させながら、朝鮮の民俗宗教と巫俗信仰(シャーマニズム)がくすぶり続けていた。・・・

「祈禱院」が出現した第一期は、1930年代の朝鮮において神秘主義的キリスト教の流れをくむ信仰運動が起こった時期で、後の韓国のキリスト教系新興宗教のルーツにあたる「血分け教」の開祖として知られる、李龍道・黄國柱といった復興師達が現れた時期であった。「祈禱院」の出現がみられた第二期は、1950 年代、朝鮮動乱によって北のキリスト教徒が南へ下り、韓国で北朝鮮起源のキリスト教系新興宗教が群生した時期であった。・・・

1930年代後半、黄國柱はソウルの三角山に「祈禱院」を作り、「血分け」、「首換え」を教理として「霊體交換」を行った。黄國柱の「血分け教」は、その後も1940年代の中頃まで勢力を誇り続けていた。李龍道・黄國柱の信仰運動は、多くの醜聞を残しながらも、後の韓国のキリスト教系新興宗教のひとつの系譜となっている。「血分け教」の流れをくむ新興宗教集団は、1945年の解放後南へ下って行ったが、その後も韓国キリスト教の周辺に断続的に現れては、巫俗信仰の断片をその秘儀の中に散りばめた「血分け」儀式を再現し、「血分け教」の再生をはかっている。世界基督教統一神霊協会のルーツはこの時代の「祈禱院」に遡るものである。

1950年代には、朝鮮戦争の勃発によって北から南へ流れていった多数の「失郷民」が生み出されたが、このことは韓国のキリスト教界の教勢地図を大きく塗り替えることになった。解放前の朝鮮におけるキリスト教の拠点は、かつて東洋のエルサレムと言われていた平壌を擁する平安道であった。当時の平壌は、市内に数十メートルおきに教会が立ち並び、日曜日ともなれば街全体が教会の鐘の音でうずもれるほどであった。だが、朝鮮動乱後の南北分断により、北のキリスト教徒が南へ渡ってくることとなったため、解放時には20万人であった韓国のプロテスタント信徒数は、1953年の朝鮮戦争の終結時までに50 万人に急増した。韓国のキリスト教は南北分断の時が教勢拡大の一つのピークになっているが、それは、解放以前は北の側にあった朝鮮キリスト教の拠点が失われ、北に集中していたキリスト教徒が南へ流れてきたという民族の受難の歴史によるものであった。この時期に出現した「祈禱院」には、このような南北分断が影を落としている。1945年の解放当時、平壌の神霊集団の一員であった丁得恩が、「南へ行って伝道せよ」という啓示を受けて韓国に渡り、1953年、李龍道・黄國柱の神秘主義に傾倒した新興宗教集団の大聖心祈禱院を開いた。この大聖心祈禱院もまた、後に「血分け教」の新興宗教の群れに身を投じることになり、南北分断を境に、北を拠点としていた朝鮮の新興宗教も南へと流れてくることになった。朝鮮動乱の終結後も「4.19」、「5.16」事件等の政治的混乱が続く中、1956 年から1965年にかけて韓国全土で49 の祈禱院が出現した。

韓国のペンテコステ派キリスト教において、祈禱の占める位置は際だって大きく、祈禱は韓国のキリスト教徒の信仰生活の中心をなす営みとなっている。韓国のキリスト教では、祈禱をすることによって諸願が成就し、霊的問題が解決され、カリスマ的な霊力が獲得されてそれに磨きをかけることができると信じられており、韓国のキリスト教徒は祈禱に余念がない。・・・こういった韓国キリスト教の独特の祈禱とされるのは、「通聲祈禱(トンソンキド)」と呼ばれているもので、「主よ!アボジ・ハナニム(天にいまします我らの父よ)!!」と天も裂けんばかりに大声を張り上げ、異言を発するうちに神懸かりのようになって聖霊を受け、ハナニム(キリスト教の神)の「應答(ウンダプ)」を得ようとするシャーマニスティックなものである。・・・

近年の祈禱院においてみられる巫俗(シャーマニズム)化したキリスト教は、前述したような古代朝鮮の仙教と祈禱仏教が流入した、20世紀初頭の朝鮮キリスト教に由来するものであったと思われる。1970 年代以降、韓国のキリスト教界において「キリスト教の仏教私設庵子化運動」と称されるような「祈禱院運動」が発生してきた背景には、そうした宗教的伝統によって形成されてきた韓国の人々の意識形態が係わっていたと思われる。韓国の人々の宗教心の根底にあるのは、祈福信仰や接神に重きの置かれる巫俗信仰であり、神癒・恩賜・異言・預言・入神といった教会では叶えられない巫俗的要求の充足や神秘主義的接神体験を渇望する信徒達が、祈禱院に赴いて「祈禱院運動」に没入したことが、結果として韓国教会の復興を促し、聖霊の降臨を唱えるペンテコステ派キリスト教の急成長を成し遂げることになった。そして、そのようなキリスト教の巫俗化を促した1970 年代の「祈禱院運動」が、シャーマン的女性牧会者が神癒を手がける「祈禱院」の簇生につながっていったと思われる。・・・

ハレルヤ祈禱院の神癒集会は、ペンテコステ教会の復興會からその基本パターンを踏襲しており、復興會形式の礼拝に沿って、熱狂的雰囲気の中で金桂花院長の「神癒」が進められてゆく。同祈禱院の神癒集会では、骨髄炎、股関節異常、甲状腺喉癌、直腸癌、ヘルニア、瘤、腹水、皮膚病、火傷、交通事故の後遺症、子宮癌、リンパ腺腫瘍、肝癌、脳性麻痺、脳神経炎、脳腫瘍、喉癌等、ありとあらゆる不治の病や難病奇病が、金桂花院長の「按手・按擦聖霊手術」によって劇的に治療される。・・・

金桂花院長の神癒歴を同院長の生活史に照らして跡づけてみると、金桂花院長がハレルヤ祈禱院を創立し、ハナニムから「神癒の能力」が与えられて「聖霊手術」を手がけるようになったいきさつには、韓国のキリスト教が巫俗等の民俗宗教や他の伝統宗教と習合し、シャーマニズム化していった過程が集約されていることがうかがわれる。そして、金桂花院長がキリスト教徒になっていった過程には、韓国の女性に対する儒教規範の圧迫、院長の婚家での二度にわたる父系血統の断絶、韓国におけるキリスト教と祖先崇拝の相克、キリスト教信仰と巫俗信仰との葛藤、巫堂との確執、巫堂との絶縁とハナニムへの帰依、韓国の民間療法から「神癒」への転換、「神癒祈禱」から「聖霊手術」の「神癒の能力」へといった、いわば朝鮮時代から現代までの韓国の民俗宗教とキリスト教の流れが集約されているのが見て取れる。・・・

韓国のキリスト教は、激動の民族史を背景に、朝鮮民族の民俗宗教をひきずりながら、「祈禱院」をフロンティアとしてその信仰形態を作り上げてきた。韓国のキリスト教が今なお引きずっている問題も、今後直面する事態も、キリスト教のフロンティアである「祈禱院」において先取りされ、再現されてゆくものと思われる。
http://pentecost-j.nanzan-project.org/?eid=10(報告レジュメ)
------------------------------------------------------------

1932年に金聖道ハルモニの下に結集したメンバーは李龍道、白南柱、李浩彬、李宗鉉、韓義貞等

洪順愛大母様は上記論文中に登場する1933年ごろ「血分けの黄國柱」と共に巡回伝道した後、李龍道の「新イエス教会」で三年間、1936年ごろからは金聖道夫人の「聖主教」で八年間、1944年ごろからは許浩彬夫人の「腹中教」で六年間信仰した。