真の家庭情報(6) | ちゃぬの裏韓国日記

ちゃぬの裏韓国日記

カルト統一教会と世界支配層との関係をあばく
(統一教会=世界平和統一家庭連合)

■文鮮明教祖の族譜

『私が文氏の先祖(文多省公=ムンタソン)を注意深く見てみると、文氏は私生児から出発しているのです。族譜を明らかにしてみると、新羅時代の慈悲王が啓示によって、「この国に特別な赤ん坊が生まれたので探せ」と言う命を受けて、南平にある文巖と言う岩で泣いているのを探し出して、そこから出発したというのです。』


【南平文氏族譜】
(1974年2月15日文聲然(武元)発行「南平文氏始祖」より)
472年誕生 南平懸(全羅南道羅州郡南平面楓林里)長者池湖畔にある巌石の上の石函から誕生

 1代目 - 文多省
 2代目 - 倬 (倬・克・及)
 3代目 - 天降
 4代目 - 周伯(周男・周伯・周候・周昌・周興)
 5代目 - 繼祖(承祖・繼祖・胤祖・嗣祖)
 6代目 - 聖和(聖時・聖和)
 7代目 - 仁傑
 8代目 - 智遠(智深・智遠)
 9代目 - 挺
10代目 - 仲達(時達・仲達・栄達)
11代目 - 裕克
12代目 - 孝梯
13代目 - 章永
14代目 - 正(克・正)
15代目 - 翼(翠・翼)
16代目 - 公裕(公仁・公裕・公仁)
17代目 - 克謙(克謙・克純)
18代目 - 候軾(候軾・惟弼・惟哲)
19代目 - 誕
20代目 - 仲蓮
21代目 - 章永
22代目 - 得俊(得俊・得傑)
23代目 - 克儉
24代目 - 允恪(允恪・允慎・允武)
25代目 - 叔宜
26代目 - 益漸(益謙・益漸・益孚・益夏)
27代目 - 中實(中庸・中誠・中實・中晋・中啓)
28代目 - 來(來・英・蕉・萃・崇)
29代目 - 珣(天奉・珣)
30代目 - 弘壽(弘壽・弘胃・尚胃)
31代目 - 諡(諡・達・徳・互)南平文氏一族が定州に定着
32代目 - 玄珪(玄實・玄珪)
33代目 - 彦弼(彦弼・漢弼・彦卿)
34代目 - 得煥
35代目 - 諶
36代目 - 自仁
37代目 - 起用
38代目 - 世鵬(世麟・世鵬・世麒)
39代目 - 耽(緝・耽)
40代目 - 時發(未善・時發)
41代目 - 斗昌
42代目 - 興道(興道・貫道)
43代目 - 光彬(光彬・光淑)
44代目 - 守命
45代目 - 成學
46代目 - 禎紀(禎浩・禎機・禎紀)(曾祖父・善玉=禎紀?
47代目 - 致國(致國・信國・凋國(潤國では?)
48代目 - 達模(鮮明の父は分家?→慶裕(父)・慶福・慶求
49代目 - 熙龍・龍明・龍官(兄は龍壽のはずでは?
50代目 - 聖進・喜進・孝進・興進・顕進・國進・・・
51代目 - 信一・信吉・・・
52代目 - 定男


※人類史の大真実の南平文氏・文鮮明師系図一覧がより見やすいです。 
http://www.chojin.com/history/kakei2.htm

※曾祖父・善玉=禎紀?
「当時、生活に困っていた女性たちは、頭に物(魚やエビの塩辛など)を載せて、商いのため家々を回りました。善玉(禎■(糸+乞))おじいさんの家に来て、『魚を買いませんか』と言えば、おじいさんは断ったことがありませんでした。『おお、買うよ、買うとも』と」
(聖地定州 第3章 名門南平文氏の末裔)

※祖父の弟・潤國=凋國?
「潤國」の韓国語発音は「ユングク」ですが 「凋國」の発音は「チョグク」です。同一人物なのでしょうか?

※父・慶裕=達模?
曾祖父同様、名前に共通点がありません。父・慶裕は分家だったのしょうか?

※兄・龍寿=熙龍?
統一教会の出版物は、すべて「龍寿」にしてあるらしいのですが、文教祖が本当の兄の名を知らなかったのか別人かでしょう。


■文氏の宗族は40万人

【文氏の家訓】

◇家訓1 「腹が減った人を絶対手ぶらで送り返すな」

『先生の家門の伝統、代々伝わる伝統は、『腹が減った人を絶対手ぶらで送り返すな』というものです。お客さんが訪ねてくる時は、絶対そのまま送り返さないのです。宴会の日でも送り返すなというのです。そいう家訓があるのです。韓国全道のたくさんの人々に御飯を食べさせたのです。日帝時代には日本人が搾取するので貧しくなり、韓国全道の多くの人が満州に避難して行ったのです。我が家はその道筋にあるので、私の母はその人々に御飯をたくさん出して食べさせたのです。お母さんが毎日、三十、四十名の御飯を出して食べさせるのです。一生の間そうしながらも、不平を一言も言わなかったのです。』

『先生の家にも代々伝わる一つの家訓があります。それは通り過ぎていくお客様をよく接待してあげることです。私の祖父の時代にも寒い冬の日に乞食が来て、三回以上『何か恵んでください』と物乞いする声が聞こえると大変なことになります。直ちに、自分が召し上がっていたお膳を持って行って全部与えてしまうのです。そして、祖父と祖母の喧嘩が始まるのです。分かりますか。もし、あなたたちが乞食になったと思ったらどうでしょう。冬の寒い日に、他人の家の前に行って物を乞うことが簡単なことでしょうか。その時には食べさせて上げなさい、というのです。命を懸けているので、神の前に、天道を行く人間が、その人は命を懸けてやっているので分かって上げなければなりません。それで、御飯をたくさん食べさせるのです。祖父は妻が大切であるというよりは、乞食が大切であると思うのです。子孫万代を考える時、乞食がもっと大切なのです。そのような思考方式をもたなければなりません。私の父もそうでした。絶対に三回以上物乞いをさせませんでした。父もお膳をそのまま持って行って与えるのです。そのため、母と喧嘩になるのを見たことがあります。神がそれを見る時、記憶することと思います。先生のような人がそのような家庭から生まれたのです。何の話か分かりますか。他人のために夫婦喧嘩をするのです。他人を助けないといって、夫婦喧嘩をするのです。その責任は主人にあるのです。主人が他人を助けない時には罰を受けます。教会長も外国から訪ねて来るお客様をよく接待してあげてください。いくら御飯がなくて、飢え死にするような時でも、一善の御飯を村の人と分けて食べなければなりません。そうすれば、私が飢えるようになる時、私の知らないうちに誰かがお米を持って来てくれます。』
(1978年10月22日 韓国・水択里)


◇家訓2 「趙家の過ちを繰り返すな」
『韓国各地には、弥勒に関する伝説が幾つも残されています。ここでは、民間でもよく知られている平安北道定州の趙漢俊弥勒伝説を紹介しましょう。『万歴任寅年間、趙漢俊なる者がいたが、達川江に橋がなく、ために京城から義州へ通じる大路の障碍になることを愁え全財産を投じて石橋を架けた。
終わって余財は七文ばかり、それで一足の草鞋を買い取って旅に出たという。この漢俊は死んで三日目空中より声があって“趙漢俊が弥勒となって出世するからよくこれを祀れよ”という。村人が声のする方角に行くと一座の石仏が地中から出現していた。
人々はそこに小屋を建て被せたが、これは次第に大きく成長して屋根を突き破ってしまったので大屋をさらに作った。この趙漢俊弥勒に祈れば男子を得ると信じられている。この石仏の腹部が異様にふくれているという。このためか趙氏一門の女は成長すると腹がふくれ、あたかも妊娠したようになる。
誰かが石仏の腹部を突き破ったらば、一門の女たちの腹が痛んだので、元に戻したという。なお明の皇帝が一女をもうけた時、その背中に“朝鮮趙漢俊”の五字があった。使いを遣わしてその漢俊の有無を問うたが、時の人後患を恐れてその人のいたことを言わなかったので、明の皇帝は女子を妖物として殺してしまった。もし漢俊が七文で草鞋を買わなかったならば、明の皇太子に生まれ変わったのに、七文を利用したから皇女に生まれ、惨殺されたのだという話である。この趙漢俊弥勒は民間によく口碑として残されている』(ミロク信仰の研究・宮田登著・未来社)
これは、趙氏が残った七文の金を公的に使わず、自分のために利用してしまった結果、弥勒降誕に選ばれるような祝福を失ったという意味でしょう。天の恩恵は空よりも広く、海よりも深いものですが、天の選びもまた重く厳しいものであるといわざるを得ません。
統一教会を創立され、今日まで統一運動を指導してこられた文鮮明先生は、平安北道定州に誕生されましたが、先生の文家代々にわたって、『趙家の過ちを繰り返すな』という意味の御家訓があるとお伺いしています。』


●「南平文氏の“五賢”と言われる人たちがいます。
始祖文多省(武成公)をはじめとして、文公裕(敬靖公)、文克謙(忠肅公)、文惟弼(孝恵公)、そして文益漸(忠宣公)の五人です。
始祖武成公を除く四人はすべて高麗時代(919~1392年)の人々です