2015年晩秋の京都旅行です

猪軍団の神業



2日目の午前中は、京の“西山”なる辺りを散策。大山

お山のあちこちに面白そうなお寺が点在しているのだが、
足腰の弱った老母と一緒だとあれこれ見ても歩けず。あせる
タクシーを使って、絞りに絞って回ったのは、
まずは、善峯寺(ヨシミネデラ)。
――タクシーは前日に予約して、駅で待っていてもらった。車


向日駅(東向日だったか、西向日だったか記憶曖昧なり?)から西へ、
“西山”へと入って行く。
結構急な坂を上っていくと、善峯寺の古びた立派な山門が出迎えてくれた。クラッカー


山の斜面を均し均し造られているようで、境内は山に即して上り下りが多い。↓↑


平安中期の長元2年(1029)源算上人が小堂に御自作の千手観音を奉安して、阿智坂の法華院と号したのが始まり」のお寺、とな。∑ヾ( ̄0 ̄;ノ


その後で、
長元7年(1034年)には後一条天皇から『良峯寺』の寺号を賜った。
長久3年(1042)後朱雀天皇勅命により、洛東鷲尾寺の千手観音を遷座して本尊とされました。」……そうな。(=◇=;)


思うに、
何かを始めようとするとき、何も揃っていなくとも、
心ひとつで始められる……
立派な仏像があるとか、立派なお堂を建てるとか、そういうことではなくて、
肝心なのは、身ひとつで己は何を行うかだ……って感じだったのではなかろうか。グー


最初は何もなくて、千手観音を不器用ながら(?)自分で彫って“本尊”として始めたのだけど、
数年後には、後一条天皇から、寺の名前を賜ったり、アップ
後朱雀天皇からは、とあるお寺の(きちんとした?)千手観音像を置くように命じられたり、アップ
後鳥羽天皇からは「善峯寺」の宸額(シンガク)を賜ったり、アップ
(山門に掛っているのが、その「宸額」らしい。)

善峯寺山門

白河天皇や後花園天皇からは伽藍寄進整備がなされたり、アップ
後嵯峨天皇や後深草天皇など皇室の崇敬を受けたりアップ
まぁ、あれやこれや時の天皇さまが気に掛けている。ベル

……ってことは、常に天皇から気に入られていた
=よく庇護を受けた、ということなんだろうね。| 壁 |д・)



応仁の乱に巻き込まれて伽藍が消失したのち、江戸時代になってから桂昌院(第3代将軍徳川家光の側室にして、第五代将軍綱吉の母)の寄進によって再興された」と。メモ


「応仁の乱」の戦火って、京の西のこんな山の上まで及んだのか?と、またも改めて呆れる。(((゜д゜;)))
善峯寺の背後の山を越えたら、もう大阪テリトリー。
比喩でなく、本当にリアルに、京都がことごとく隅々まで火の海となったのねぇ。叫び


善峯寺は焼け落ちた後も、将軍関係から篤く扱われている。ドキドキ
神社仏閣は沢山ある中で、ずっと目を掛けられている。ドキドキ
いったいこの寺は天皇や将軍家の人々に、どんな魅力があったのだろう?はてなマーク




この寺の伝説に、「猪の地ならし」なるものがあって、
(「吉峯寺」


最初にお堂を建てるとき、この地が岩だらけで土地をならせずに困っていたところ、あせる
源算上人は夢で“お告げ”を受けた。
次の夜、野猪の大群が現れて、一夜にして牙で大岩をうがち、平地と」なり、
この場所にお堂が建立されて法華院」とされた……という。∑(゚Д゚)いのしし

んな馬鹿な! とは思うが、о(ж>▽<)y ☆
猪が一夜で地ならしをしてくれちゃったという、ありがたいお話。(。-人-。)

猪は人々の畑を荒らしたり、人を傷つけたりと嫌われているようだけれど、
善峯寺では、神のお遣い、頼もしい助っ人だったわけだ。

動物たちが人を助けたり、人と仲良しになったりする物語は、なんとも微笑ましい。
今も、こんな“猪軍団”がいたら心強いものだが。( ´艸`)ラブラブ



源算上人手彫りの仏像とお堂ひとつで始まった善峯寺は、
猪のお蔭か、源算上人の力か、次々、他の堂も増築され、
天皇たちの覚えもよく、
今は、山の静かさの中にも、どーんと風格を感じさせる寺である。キラキラ

有名な「遊龍松」は樹齢600年ともいわれる五葉松。Σ(~∀~||;)
現在全長37mとな!

遊龍松1

横に枝を広げて、伸びる伸びる伸びる伸びる
まだまだ伸びるアップ(=◇=;)

遊龍松2

無駄に長いインドのサドゥのロンゲのようだ。にひひ



紅葉散り敷く紅の小道も美しく、キラキラ

紅葉絨毯

ってか、11月中旬で、ちょっと紅葉に早いようでもあり、あせる
既に散っている枝もあり、あせる
丁度真っ盛りの紅葉はないか?と探し歩く。あせる

釈迦堂と紅葉

深紅紅葉

オレンジ色とかグラデーションの紅葉もいいけれど、
鮮烈な紅! やはり、これを見ないと、だ。ラブラブ!




日本では珍しいという「合掌」ポーズのお釈迦様も。(。-人-。)

合掌釈迦

不信心な私には、
「そうだっ! 今夜はトンカツにしましょっ」なんて、夕飯のメニューを思いついた主婦のようにも見える。( ´艸`)


向こうに見えるのは、京都の町と、比叡山かも?(源信上人は比叡山で修行した方。)

見晴らし


幸福地蔵」――ヤグラ(舞台?)状の小さなお堂(踊り場?)に、なんて~ことはないお地蔵さまが。

幸福地蔵

自分以外の幸せを願いましょう」とな。∑(-x-;)

人の幸せを願うことこそ、自分の利害に囚われず、心安らかで、
結局自分が幸せでいられる……ということだろうか。キラキラ


願いごとを前もって制限されるのって、ちょっと興ざめだけど……。むっ
ってか、神仏に「願い事」をする時って、まずは自分以外の人のことだけど?(・ω・)b
ってか、自分以外の人の幸せを願うことは、すなわち自分の幸せであって、
結局は己の幸せを願っていることに他ならず……(-"-;A
う~む?あせる



この善峯寺を復興させた桂昌院(ケイショウイン)は、
自分の息子を将軍にさせるべく、最後まで諦めず尽力したようだから、
そもそもエゴイスティックな欲望に燃えた方ではなかったろうか?(-_☆)



桂昌院は名を「お玉」といい、八百屋の娘から第3代家光将軍の側室に、アップ
さらに将軍の母親(息子は第5将軍綱吉)にまで出世したラッキーウーマンだったようで。アップ
一説には、「玉の輿」の語源となっているとか。キタ━━━(゚∀゚)━━━!!!



善峯寺だけではなく、他にも護国寺など多くの寺社を手厚く庇護した人らしい。クラッカー
あの大奥の中で、自分の息子をまんまと(?)将軍にさせたって、
並みの執念ではできないのではないか?| 壁 |д・)
まったく天の采配だけでもなかろう?| 壁 |д・)
……と思うのは、邪悪な私だけでしょうか。汗

参照:
桂昌院を仏心深い女性として好意的にまとめてあるサイト→「大奥シンデレラ・ストーリー~将軍の母・桂昌院 玉の輿物語…NHK歴史秘話ヒストリアより



善峯寺は、もちろん桂昌院の像もあり、実に好意的に祀られていた。クラッカー


お守り納めどころ」なる可愛い壺もあり。ラブラブ!

お守り納め壺

金属工芸作家小泉武寛(ブカン)氏の制作。←制作者の名前が明示されているのって、いいね♪ヾ( ´ー`)


桂昌院様の名前『お玉』にちなみ、3匹の仔犬が玉の輿を担いで、皆様のしあわせを願っております。」って。(。-人-。)


この寺を開いた源算上人は、「玉の輿」なんて願ってはいなかったのでは……と思うのは、
私だけ……?あせる




帰りがけ、ご住職らしき方が、焼きたての小さなかわいい煎餅を差し出してくださった。ドキドキ
ひとつまみの小さなお煎餅が、ほんのり甘くて、温かくて、美味しかった♡ 
そんなものを振舞ってくださるということに、ほんわかとした気持ちにさせられた。ラブラブ


ふと見ると、横には今配られた煎餅が売っているではないの。∑(゚Д゚)
思わず購入しちゃいました。(///∇//)(これは、ある意味、戦略だったのだろうか……。汗

と、と、とにかく、山の空気も澄んだ、気持ちのよいお寺でした。キラキラ




おまけ

善峯寺のさらに山の奥の方には、「覚快外四新王(カクカイホッシンノウ)墓」なる墓があるようだ。ダレジャソレハ?はてなマーク

寺を巡っていると、その奥の方に、耳慣れない名前の墓がしばしばある。(-_☆)
その寺にゆかりのある人の墓なのだろうが、そういう人って、いったい何者だったのか……
いつもちょっと気になりながら、そこまで足を伸ばせずに観光を優先して訪ねずじまいに終わる。
ガックリ

槙?