2015年晩秋の京都旅行です
平等なのか? 平等院
「極楽浄土の宮殿をモデルにした鳳凰堂」(パンフレットより)
↓
(鳳凰堂=正式には、阿弥陀堂)
赤い橋は、極楽の池の上に浮いているかのような鳳凰堂に続いている。
いざ、極楽浄土の宮殿(?)へ!
屋根に対になった“お約束”の鳳凰が乗っている。←「阿弥陀堂」が「鳳凰堂」と呼ばれるようになった由来の鳳凰ね。
「鳳凰は、鳳という雄と凰という雌のつがいを云いますが、平等院は区別がありません。」
とな!
シランカッタワ オスもメスも「鳳凰」という鳥かと思っておりましたっ。ヽ((◎д◎ ))ゝ
参照:「平等院 よくある質問」
「区別がない」……って、2体とも同じ「鳳凰」ということなんだろうけれども、
もともとメス「鳳」とオス「凰」と区別あるものが、“同じ”って、
平等院の「鳳凰」は、メスなの? オスなの? どっちなの? 両性具有なの?
正面の格子に丸く窓が開けられていて、奥の大仏さまらしきもののお顔が見える。| 壁 |д・)
大仏(?)さまのチラリズム。奈良の東大寺と同じ手法だね。
↓
その大仏さまは、「本尊阿弥陀如来」とのこと。(=◇=;)
↓
(ネットより拝借画像:本尊阿弥陀如来)
クールな横顔ね。
「平安時代を代表する仏師定朝の作であることが確実な
現存唯一の仏像」……とな!Σ(=°ω°=;ノ)ノ
これぞ阿弥陀如来!という姿で作られているんだろうね。
ピアスの穴(?)もただ事じゃない長さだ。
ふっくらとした頬。
それにしても、大抵こうしたふっくらした仏像は二重顎!(///∇//)
仏様が何歳くらいと想定して仏師は作っているのだろうか。
この首の弛み具合、40か50は行っているのではないか?(-_☆)
しかし、それにしては、お顔の皺はない……。
“ポッチャリ系30代”といったところか。ドーデモイイケド^^;
仏師というと、鎌倉時代の仏師くらいしか知らないけれど、
考えたら、奈良、平安時代からいたはずだもんね?
平安時代随一の仏師、定朝(ジョウチョウ)。
どんな人だったんだろう?
……って、後日調べたら、
仏師定朝(ジョウチョウ)が小説になってた!Σ(・ω・;|||
↓
(ネットより拝借画像)
さて、
定朝の渾身の作であろう阿弥陀如来の周りには、
雲に乗った小さな菩薩様たちが52体飛んでいた(壁に掛けられていた?)らしく、
そのうちの26体は、「鳳凰館」で展示されていた。
↑
こんな感じのが、26体。楽器を奏でていたり、踊っていたり、拝んでいたり、
いろいろなポーズをとっている。
「雲中供養菩薩」というらしい。
表情も、どれも優しげ。
当時の人々は、心底、
あぁ、極楽って、いい所なんだろうなぁ~♪と思ったに違いない。( ´艸`)
(当時の人々……といっても、この平等院の中に入れる人は、もしかして限られていたのではなかろうか? 万民が現代のように、入場料さえ払えば、自由に拝観することができたのだろうか?)
こうした装飾的菩薩像も、建具のひとつひとつも、
実に装飾は精緻で繊細かつ煌びやかである。
そもそも平等院は、
藤原氏最大の権力者藤原道長の別荘だったとか!∑ヾ( ̄0 ̄;ノ
そこを、平安後期、すなわち「永承7年(1052年)俗に言う末法初年に、
藤原頼通が寺院に改め、平等院と号しました。」とな。
道長の長男、頼道が、父の別荘を“極楽浄土の宮殿”たる寺院に作り変えたわけだ。
1052年って、頼道は61歳。
30歳前に関白になってから、関白歴30年ほど過ごしてきた頃。
彼はあと20年ほど、トータル50年近く関白でい続けたようだが、
彼にとって1052年は、“晩年”に突入している頃だったろう。
人間50、60にもなると、「死(後の世界)」がリアルに感じてくるもんじゃないかな。
おまけに「末法思想」でいうところの、
「末法」が来~る~! ってんだから、じっとしていられなかったろう。ヽ(;´ω`)ノ
「末法思想」って、ググッたら
「正しい教えは次第に衰え、やがて滅びる、とする考え方」、とな。(^_^;)
正しい教えも、形骸化してしまう。
教えを伝え守るべき人も、腐敗し乱れていく。
恐ろしい地獄のような世の中になっちゃうぞいっ! という不安。
もともとは、訓戒として語られたらしいが、
いつの間にか、本当にそう運命付けられているように人々は思ったのだろうね。
……ってか、
「訓戒」として心するのではなく、
そんな風に「末法」に脅え始めた時点で、“釈迦の教え”はもはや“正しく”受取られておらず、
“正しき世”は滅び始めていたんじゃないかね?(-_☆)
“科学の時代”の現代だって、
「ノストラダムスの大予言」だ「ハルマゲドン」だと、
“この世の終わり”に本気で脅える人々は決して少なくない。
いわんや、平安時代をや、だ。┐( ̄ヘ ̄)┌
末法を恐れている分、余計に極楽浄土はありがたく、心惹かれただろう。
極楽浄土の宮殿をこの世に現出せしめてしまう藤原頼道の権力、畏るべし!
先祖代々の権力、しかも、その父がその中でも最強の権力を誇ったはずの頼道が、
仏教に帰依する心深く、その権力を使って、この平等院を作ったのだろうが、
そんな特権の権化のような頼道が作った「宮殿」が、
なぜ「平等院」と名づけられたのだろう?
と、はたと不思議に思った。( ̄ー ̄;
で、ググって見たらば、
「仏の救済が平等ということを意味します。
そして、仏の平等を光で顕わします。 平等院は光のお寺なのです」とな!∑(゚Д゚)
参照:「平等院 よくある質問」
「よくある質問」なんだね。ぷぷぷ( ´艸`)
現世は平等ではないけれど、仏の救済は平等
……って、今に生きる私は、なんじゃ、そりゃ!?( ・д・)/--=≡(((卍と思うけれど、
当時の人々は、あぁ、ありがたいことじゃ!(。-人-。)と思ったのだろうねぇ?
まして、絶対的権力者が、下々の者たちまで仏の救済は平等であるぞよ♪
と言ってるってんで、
はぁ~、ありがたいことで!(。-人-。) と感激……していたんだろうねぇ?
おまけ:
藤原氏をざっくりと追ったサイトを発見。
↓
「日本の歴史の影に藤原氏あり! 日本最高の貴族・藤原氏と日本の歴史」
あの近衛文麿も細川護熙も(両者とも元首相だ)、藤原氏の末裔だったとは! Σ(=°ω°=;ノ)ノ
びっくりぴょ~ん
平等なのか? 平等院
「極楽浄土の宮殿をモデルにした鳳凰堂」(パンフレットより)
↓
(鳳凰堂=正式には、阿弥陀堂)
赤い橋は、極楽の池の上に浮いているかのような鳳凰堂に続いている。
いざ、極楽浄土の宮殿(?)へ!
屋根に対になった“お約束”の鳳凰が乗っている。←「阿弥陀堂」が「鳳凰堂」と呼ばれるようになった由来の鳳凰ね。
「鳳凰は、鳳という雄と凰という雌のつがいを云いますが、平等院は区別がありません。」
とな!
シランカッタワ オスもメスも「鳳凰」という鳥かと思っておりましたっ。ヽ((◎д◎ ))ゝ
参照:「平等院 よくある質問」
「区別がない」……って、2体とも同じ「鳳凰」ということなんだろうけれども、
もともとメス「鳳」とオス「凰」と区別あるものが、“同じ”って、
平等院の「鳳凰」は、メスなの? オスなの? どっちなの? 両性具有なの?
正面の格子に丸く窓が開けられていて、奥の大仏さまらしきもののお顔が見える。| 壁 |д・)
大仏(?)さまのチラリズム。奈良の東大寺と同じ手法だね。
↓
その大仏さまは、「本尊阿弥陀如来」とのこと。(=◇=;)
↓
(ネットより拝借画像:本尊阿弥陀如来)
クールな横顔ね。
「平安時代を代表する仏師定朝の作であることが確実な
現存唯一の仏像」……とな!Σ(=°ω°=;ノ)ノ
これぞ阿弥陀如来!という姿で作られているんだろうね。
ピアスの穴(?)もただ事じゃない長さだ。
ふっくらとした頬。
それにしても、大抵こうしたふっくらした仏像は二重顎!(///∇//)
仏様が何歳くらいと想定して仏師は作っているのだろうか。
この首の弛み具合、40か50は行っているのではないか?(-_☆)
しかし、それにしては、お顔の皺はない……。
“ポッチャリ系30代”といったところか。ドーデモイイケド^^;
仏師というと、鎌倉時代の仏師くらいしか知らないけれど、
考えたら、奈良、平安時代からいたはずだもんね?
平安時代随一の仏師、定朝(ジョウチョウ)。
どんな人だったんだろう?
……って、後日調べたら、
仏師定朝(ジョウチョウ)が小説になってた!Σ(・ω・;|||
↓
(ネットより拝借画像)
さて、
定朝の渾身の作であろう阿弥陀如来の周りには、
雲に乗った小さな菩薩様たちが52体飛んでいた(壁に掛けられていた?)らしく、
そのうちの26体は、「鳳凰館」で展示されていた。
↑
こんな感じのが、26体。楽器を奏でていたり、踊っていたり、拝んでいたり、
いろいろなポーズをとっている。
「雲中供養菩薩」というらしい。
表情も、どれも優しげ。
当時の人々は、心底、
あぁ、極楽って、いい所なんだろうなぁ~♪と思ったに違いない。( ´艸`)
(当時の人々……といっても、この平等院の中に入れる人は、もしかして限られていたのではなかろうか? 万民が現代のように、入場料さえ払えば、自由に拝観することができたのだろうか?)
こうした装飾的菩薩像も、建具のひとつひとつも、
実に装飾は精緻で繊細かつ煌びやかである。
そもそも平等院は、
藤原氏最大の権力者藤原道長の別荘だったとか!∑ヾ( ̄0 ̄;ノ
そこを、平安後期、すなわち「永承7年(1052年)俗に言う末法初年に、
藤原頼通が寺院に改め、平等院と号しました。」とな。
道長の長男、頼道が、父の別荘を“極楽浄土の宮殿”たる寺院に作り変えたわけだ。
1052年って、頼道は61歳。
30歳前に関白になってから、関白歴30年ほど過ごしてきた頃。
彼はあと20年ほど、トータル50年近く関白でい続けたようだが、
彼にとって1052年は、“晩年”に突入している頃だったろう。
人間50、60にもなると、「死(後の世界)」がリアルに感じてくるもんじゃないかな。
おまけに「末法思想」でいうところの、
「末法」が来~る~! ってんだから、じっとしていられなかったろう。ヽ(;´ω`)ノ
「末法思想」って、ググッたら
「正しい教えは次第に衰え、やがて滅びる、とする考え方」、とな。(^_^;)
正しい教えも、形骸化してしまう。
教えを伝え守るべき人も、腐敗し乱れていく。
恐ろしい地獄のような世の中になっちゃうぞいっ! という不安。
もともとは、訓戒として語られたらしいが、
いつの間にか、本当にそう運命付けられているように人々は思ったのだろうね。
……ってか、
「訓戒」として心するのではなく、
そんな風に「末法」に脅え始めた時点で、“釈迦の教え”はもはや“正しく”受取られておらず、
“正しき世”は滅び始めていたんじゃないかね?(-_☆)
“科学の時代”の現代だって、
「ノストラダムスの大予言」だ「ハルマゲドン」だと、
“この世の終わり”に本気で脅える人々は決して少なくない。
いわんや、平安時代をや、だ。┐( ̄ヘ ̄)┌
末法を恐れている分、余計に極楽浄土はありがたく、心惹かれただろう。
極楽浄土の宮殿をこの世に現出せしめてしまう藤原頼道の権力、畏るべし!
先祖代々の権力、しかも、その父がその中でも最強の権力を誇ったはずの頼道が、
仏教に帰依する心深く、その権力を使って、この平等院を作ったのだろうが、
そんな特権の権化のような頼道が作った「宮殿」が、
なぜ「平等院」と名づけられたのだろう?
と、はたと不思議に思った。( ̄ー ̄;
で、ググって見たらば、
「仏の救済が平等ということを意味します。
そして、仏の平等を光で顕わします。 平等院は光のお寺なのです」とな!∑(゚Д゚)
参照:「平等院 よくある質問」
「よくある質問」なんだね。ぷぷぷ( ´艸`)
現世は平等ではないけれど、仏の救済は平等
……って、今に生きる私は、なんじゃ、そりゃ!?( ・д・)/--=≡(((卍と思うけれど、
当時の人々は、あぁ、ありがたいことじゃ!(。-人-。)と思ったのだろうねぇ?
まして、絶対的権力者が、下々の者たちまで仏の救済は平等であるぞよ♪
と言ってるってんで、
はぁ~、ありがたいことで!(。-人-。) と感激……していたんだろうねぇ?
おまけ:
藤原氏をざっくりと追ったサイトを発見。
↓
「日本の歴史の影に藤原氏あり! 日本最高の貴族・藤原氏と日本の歴史」
あの近衛文麿も細川護熙も(両者とも元首相だ)、藤原氏の末裔だったとは! Σ(=°ω°=;ノ)ノ
びっくりぴょ~ん