2014年4月京都の春 2婆の旅
2014年、4月に、2婆(姉・私)で、京都に花見旅行に行ったときの覚書です。
10 日本初の発電所、蹴上(ケアゲ)発電所
注:
この記事について、訂正がありますので、
「大訂正 日本初の水力発電について」もご覧頂ければ…と思います。m(_ _ )m
旅行記をアップするときは、間違いがないように、
旅行で訪れたところを、後日、改めてネットで色々チェックなどして
記事にするのだが、
その過程で、
旅行中には気づきもしなかったことが、
あとからあとから、湧いて出てくる。Σ(=°ω°=;ノ)ノ
今回、平安神宮をチェックしたことで、
日本で初めての水力発電所が京都で作られたということを知った。(((゜д゜;)))
実は、平安神宮を見物したあと、
南禅寺の琵琶湖疏水の流れる水道橋の上を目指して歩いたのだったが、
それは疎水沿いの桜を求めてのことであって、
水力発電のことなど、何にも知らなかった。┐( ̄ヘ ̄)┌
観光客の流れをなるべく避けるように
疎水に沿って咲き誇る桜を眺め、
歩いて行ったのだが、
そこに、「蹴上発電所」なるものを見つけたのだった。Σ(・ω・ノ)ノ!
↓
「蹴上発電所のあゆみ」
説明板には、「日本初」なる表現は一切なく、
「水力発電事業発祥の地」とはあったけれど、
ここが日本初の水力発電所である……という風には全然思い至らなかったのであった。(/ω\)
「発祥の地」ってフレーズはインパクトが薄い……と思うのは、私だけ?(/ω\)
へぇ?こんなところに発電所があるんだ?
ここで事業が始まったんだ?
くらいで……。
どうして、「日本初の」というフレーズを説明板に入れなかったのだろう?
入れてあれば、「へぇ?」でなく、「ほぉ!」となっただろうに。
観光客だって、もっと来るかもしれないのに。
あ、むしろ、発電所は大切&危険な場所だから、
変に観光化されたくなくて、わざと「日本初」という魅力的なフレーズを抜いているのかな?
しかし、
疎水事業も発電所建設&発電事業も、
明治維新後、京都が全力を挙げて
京都をアピールする一策だったはず。
……むぅむむむ。わからん。(-"-;A
さて、旅行中は、
思いがけず「発電所」を見つけたのだが、
看板がつぎつぎに現れ、
どこにどれがあるのか、歩いているだけでは、よくわからなかった。(°Д°;≡°Д°;)
桜を見に来たのに、なぜにこんな色気のない看板と柵がずらりとあるの?
と、むしろガッカリした気分で説明板を眺めたのであった。
↓
「第1期 蹴上発電所」の説明板。
しかし、ここが日本初の発電所で、
疎水の引き込みと水力発電が
“みやことしての復権”を掛けた事業だったことを知った今、
とりあえず写真に収めてきた説明板を読むと、
改めて当時の時代と水力発電のかかわりが見えてくるのであった。(=◇=;)
明治14(1881)年 第3代京都府知事、北垣国道さんが京都復興、
近代化推進のため、琵琶湖疏水工事を計画。
明治18(1885)年 疎水工事着工。
明治23(1890)年 蹴上発電所工事着工。
明治24(1891)年 運転開始。
明治28(1895)年 京都に、電気を使った日本初の路面電車走る。
皇紀1100年ということで平安神宮が建てられるほか、
色々な催し物のために、
電気需要が俄かに高まる。
日清戦争戦争終わる。
明治41(1908)年 第2疏水建設着工。
明治45(1912)年 第2疎水完成。
この第2疎水ができたので、
大正3(1914)年に、夷川発電所、墨染(伏見)発電所などが次々作られ稼動していったようだ。(=◇=;)
第2期蹴上発電所の説明板。
↓
「第2期建物の正面に掲げられた『功天亮』(てんこうをたすく)の文字は
今生(平成)天皇の祖父である久邇宮邦彦殿下(←注:「昭和天皇の皇后の父」、つまり天皇の母方のおじいちゃんだ。)の筆による。
「水力エネルギーという自然の恵みを人々の生活に生かすことこそ、
天の意思に叶うものである。」(直訳)
「自然の恵みを人々の生活に生かす」……この初志に、
“エネルギーさえ得られれば人の生活が破滅しても構わない”
なんて考えは入っていない。
「エネルギー」というものを「自然」を利用して「人」の力で“自然以上に作り出す”ことこそ、
“近代”だったのではなかろうか。
エネルギー(資源)をいかに保持するか……それがそもそも“近代的世界”の争いの始まりじゃないのかいな。( ̄_ ̄ i)
アインシュタインの“質量・エネルギーの法則(?)”なんてものは、
日本のみならず、地球上の“文明国”に
エネルギーで人間の生活は豊かにできる、
エネルギーは人間の掌中でコントロールできる…などと、
人間の“文化力”を錯覚させたのではないだろうか。(;´Д`)ノ
(まぁ、アインシュタインの導き出した理論が悪かったわけではないけれども……。)
さらに、
第3期蹴上発電所の。
↓
「蹴上発電所は、琵琶湖疏水で得られる水力の有効活用の目的で建設され、
明治24(1891)年6月に発電機2台で運転を開始しました。
以来、100年以上たった今なお、現役の発電所として京都の町に“でんき”を送り続けています。」
……って。スゴイ!(=◇=;)
観光客がわさわさ集まっている辺りは遠巻きにして、通りすぎ、
↓
蹴上のところからトンネルをくぐって、
↓
丘の斜面に、「殉職者之碑」Σ(・ω・ノ)ノ!
↓
これだけの大規模な工事、
事故や病気で亡くなった方もたくさんおられたことだろう。(。-人-。)
沢山の犠牲の上に、人々の便利な近代的生活が結実しているのだ。
疎水は柵でしっかり区切られて、
↓
↑
ここはどこだったんだろう? 第1? 第2? 第3?
閉ざされていて、よくわからなかった。
↓
静かに緑色に湛えられた水……これが琵琶湖の水なのかな?
↓
ダムも、ダム湖もないのに、
琵琶湖の疎水を引き込むだけで
どう発電ができているのかなぁ?
山を下りると南禅寺の水道橋に出た。
↓
境内を抜けて、さらに進む。
つづく
2014年、4月に、2婆(姉・私)で、京都に花見旅行に行ったときの覚書です。
10 日本初の発電所、蹴上(ケアゲ)発電所
注:
この記事について、訂正がありますので、
「大訂正 日本初の水力発電について」もご覧頂ければ…と思います。m(_ _ )m
旅行記をアップするときは、間違いがないように、
旅行で訪れたところを、後日、改めてネットで色々チェックなどして
記事にするのだが、
その過程で、
旅行中には気づきもしなかったことが、
あとからあとから、湧いて出てくる。Σ(=°ω°=;ノ)ノ
今回、平安神宮をチェックしたことで、
日本で初めての水力発電所が京都で作られたということを知った。(((゜д゜;)))
実は、平安神宮を見物したあと、
南禅寺の琵琶湖疏水の流れる水道橋の上を目指して歩いたのだったが、
それは疎水沿いの桜を求めてのことであって、
水力発電のことなど、何にも知らなかった。┐( ̄ヘ ̄)┌
観光客の流れをなるべく避けるように
疎水に沿って咲き誇る桜を眺め、
歩いて行ったのだが、
そこに、「蹴上発電所」なるものを見つけたのだった。Σ(・ω・ノ)ノ!
↓
「蹴上発電所のあゆみ」
説明板には、「日本初」なる表現は一切なく、
「水力発電事業発祥の地」とはあったけれど、
ここが日本初の水力発電所である……という風には全然思い至らなかったのであった。(/ω\)
「発祥の地」ってフレーズはインパクトが薄い……と思うのは、私だけ?(/ω\)
へぇ?こんなところに発電所があるんだ?
ここで事業が始まったんだ?
くらいで……。
どうして、「日本初の」というフレーズを説明板に入れなかったのだろう?
入れてあれば、「へぇ?」でなく、「ほぉ!」となっただろうに。
観光客だって、もっと来るかもしれないのに。
あ、むしろ、発電所は大切&危険な場所だから、
変に観光化されたくなくて、わざと「日本初」という魅力的なフレーズを抜いているのかな?
しかし、
疎水事業も発電所建設&発電事業も、
明治維新後、京都が全力を挙げて
京都をアピールする一策だったはず。
……むぅむむむ。わからん。(-"-;A
さて、旅行中は、
思いがけず「発電所」を見つけたのだが、
看板がつぎつぎに現れ、
どこにどれがあるのか、歩いているだけでは、よくわからなかった。(°Д°;≡°Д°;)
桜を見に来たのに、なぜにこんな色気のない看板と柵がずらりとあるの?
と、むしろガッカリした気分で説明板を眺めたのであった。
↓
「第1期 蹴上発電所」の説明板。
しかし、ここが日本初の発電所で、
疎水の引き込みと水力発電が
“みやことしての復権”を掛けた事業だったことを知った今、
とりあえず写真に収めてきた説明板を読むと、
改めて当時の時代と水力発電のかかわりが見えてくるのであった。(=◇=;)
明治14(1881)年 第3代京都府知事、北垣国道さんが京都復興、
近代化推進のため、琵琶湖疏水工事を計画。
明治18(1885)年 疎水工事着工。
明治23(1890)年 蹴上発電所工事着工。
明治24(1891)年 運転開始。
明治28(1895)年 京都に、電気を使った日本初の路面電車走る。
皇紀1100年ということで平安神宮が建てられるほか、
色々な催し物のために、
電気需要が俄かに高まる。
日清戦争戦争終わる。
明治41(1908)年 第2疏水建設着工。
明治45(1912)年 第2疎水完成。
この第2疎水ができたので、
大正3(1914)年に、夷川発電所、墨染(伏見)発電所などが次々作られ稼動していったようだ。(=◇=;)
第2期蹴上発電所の説明板。
↓
「第2期建物の正面に掲げられた『功天亮』(てんこうをたすく)の文字は
今生(平成)天皇の祖父である久邇宮邦彦殿下(←注:「昭和天皇の皇后の父」、つまり天皇の母方のおじいちゃんだ。)の筆による。
「水力エネルギーという自然の恵みを人々の生活に生かすことこそ、
天の意思に叶うものである。」(直訳)
「自然の恵みを人々の生活に生かす」……この初志に、
“エネルギーさえ得られれば人の生活が破滅しても構わない”
なんて考えは入っていない。
「エネルギー」というものを「自然」を利用して「人」の力で“自然以上に作り出す”ことこそ、
“近代”だったのではなかろうか。
エネルギー(資源)をいかに保持するか……それがそもそも“近代的世界”の争いの始まりじゃないのかいな。( ̄_ ̄ i)
アインシュタインの“質量・エネルギーの法則(?)”なんてものは、
日本のみならず、地球上の“文明国”に
エネルギーで人間の生活は豊かにできる、
エネルギーは人間の掌中でコントロールできる…などと、
人間の“文化力”を錯覚させたのではないだろうか。(;´Д`)ノ
(まぁ、アインシュタインの導き出した理論が悪かったわけではないけれども……。)
さらに、
第3期蹴上発電所の。
↓
「蹴上発電所は、琵琶湖疏水で得られる水力の有効活用の目的で建設され、
明治24(1891)年6月に発電機2台で運転を開始しました。
以来、100年以上たった今なお、現役の発電所として京都の町に“でんき”を送り続けています。」
……って。スゴイ!(=◇=;)
観光客がわさわさ集まっている辺りは遠巻きにして、通りすぎ、
↓
蹴上のところからトンネルをくぐって、
↓
丘の斜面に、「殉職者之碑」Σ(・ω・ノ)ノ!
↓
これだけの大規模な工事、
事故や病気で亡くなった方もたくさんおられたことだろう。(。-人-。)
沢山の犠牲の上に、人々の便利な近代的生活が結実しているのだ。
疎水は柵でしっかり区切られて、
↓
↑
ここはどこだったんだろう? 第1? 第2? 第3?
閉ざされていて、よくわからなかった。
↓
静かに緑色に湛えられた水……これが琵琶湖の水なのかな?
↓
ダムも、ダム湖もないのに、
琵琶湖の疎水を引き込むだけで
どう発電ができているのかなぁ?
山を下りると南禅寺の水道橋に出た。
↓
境内を抜けて、さらに進む。
つづく