2010年2月の長崎旅行記の続きです。
長崎さるく8 漫然と歩いた龍馬コース
「さるく」=「ぶらぶら歩く」の長崎弁
結構急な坂道をかなり登った頃、「亀山社中の跡」へ到着。
↓
「跡」とあるが、ちゃんと建物があって、見学することもできた。
復元したのだか、どうなのだか確認してこなかったが、
当時の間取りとかが復元されているようだった。
見学者が狭い部屋の中にぞわぞわいるので、落ち着かないまま、
お約束の龍馬の姿を見て、早々に引き上げる。
「亀山社中跡」、「亀山社中資料展示場」、風頭(フウトウ)公園、龍馬のブーツを模したドデカブーツ、龍馬たちがよくお参りしたという若宮稲荷神社、そのほか、行く先々に龍馬の像があって、しかし、それだけ。┐( ̄ヘ ̄)┌
↑
(ちょいと歩けば、あちこちに出てくる龍馬像。
龍馬像に食傷気味になる。)
(↑こじんまりした若宮神社。)
↑
(履いて記念撮影ができる龍馬のブーツオブジェ。
狭~い見晴台に設置されている。
順番待つのが大変ぜよ。
このブーツを履いて記念撮影撮ったからなんだとういうのだ?……と、激しく虚しくなる。)
ワタシ的にはどれも大して面白くもなし。
ただ、龍馬ゆかりのものと思うと、チェックせずにはおれないだけで、
その点では一応落ち着いた……って感じ。f^_^;
一番よかったのは、
石段だったり、アスファルト舗装されたりする細い坂道から見下ろす長崎の町並み。
亀山社中があったあたりは、かなり山の上である。
↓
細い坂道を、龍馬や他の志士たちは毎日上り下りしたのかと思うと、
彼らの体力、相当なものと察せられる。
どうしてこんな山の上に建てたのだろう?(龍馬通りに入ってから徒歩30分くらい?)
という疑問が生じる。
龍馬たちにとって、こんな坂道はものの10分もあれば上り下りできたのだろうか?
へでもなかったのであろうか?
今現在も坂道に沿って家々がぎっしりと建っているのだが、
ここに住んでいる人は、家の前に車などつけられない。
引越しする際など、一体どうしているのだろう?
大きな家具なども搬入搬出できないのではないの?
日々の買物だって大変だ。(><;)
山の上にスーパーがあるようにも見えなかった。
麓の町まで降りて買物してまた登ってくる生活……大変そうだ。
これから家を建て直そうとすると、もはや新しい規制にひっかかって建てられないのではないか?
長崎では車のディーラーさんは商売上がったりではないのだろうか……。
……などなど、
平地(関東ローム層)やバリアフリーに慣れてきた私にとっては
かなり戦々恐々となる長崎の住宅事情なのであった。(((( ;°Д°))))
以下、漫然ととってきた写真たち。
あまりに有名な龍馬の立ち姿。
↓
ふんぞりかえっていたニャンコ。
↓
亀山社中資料展示場では、写真や遺品が展示されているばかりだった。
写真の写真を撮る自分は何をしてるの?って気分になってくる。
まずは、やっぱり、これ!
↓
綺麗なお婆ちゃま? と思ったら、
↓
勝海舟さまだった。イヤン。(ノ_・。)
やはり、勝海舟さまは、こうであってほすぃ。( ´艸`)
↓
(ネットより借用。)
その他、当時のヒーローたち。
大村益次郎(左上)……頭でかっ! Σ(・ω・ノ)ノ!
脳みそがいっぱい詰まっていそうだ。
プチ情報:九段に靖国神社をつくった中心人物で、靖国神社に彼の銅像があるらしい。
今度靖国神社を見に行く楽しみが増えた。
高杉晋作(左)……す・て・き。
「おもしろきこともなき世をおもしろく」の名言があるね。
どちらも西郷隆盛?(ということになったらしいが、別の人なのだとか……?)
しかし、当時文明の最先端の精密機器だったカメラを前に、
みなさん、上手に撮られているもんだ。
昔は「魂を取られる」などといって、カメラで撮られることを恐怖した人々もいたと聞くが、幕末の志士たちは、なんともカッコヨク撮られているではないの。
カメラマンもよかったのかもね?
しかし、これだけの写真を撮るのは、当時かなりな費用が必要だったろう。
この費用はどこから出ていたのだろう?????
↑
方形の鳥居……鳥居としては方形は珍しいのだそうだ。(=◇=;)
で、なぜ方形なのかはわからず……。
↑
坂道の斜めな土地は石垣で整えられていた。
坂をさらに上ると、
「亀山焼き窯跡」なるものがあった。
オランダ人に売る水壷を作ったことが起こりらしい。
明治になる前に廃れてしまい、
いまや「幻の亀山焼き」となっているらしい。
↓
オランダ人にターゲットを絞った商売でなかったら、
今も続いていたかもしれない……?
来ずにはおられなかった亀山社中跡だが、
訪れたからといって、
龍馬について新たに深く知る……ということもなく、(^^ゞ
ただ、亀山社中への道が急で狭く、
途中の見晴らしはなかなかのもので、
その道々に建っている家々はさぞ生活が不便だろう
……ということが、とても興味深く思えた
龍馬コースではあった。(・・。)ゞ
つづく
長崎さるく8 漫然と歩いた龍馬コース
「さるく」=「ぶらぶら歩く」の長崎弁
結構急な坂道をかなり登った頃、「亀山社中の跡」へ到着。
↓
「跡」とあるが、ちゃんと建物があって、見学することもできた。
復元したのだか、どうなのだか確認してこなかったが、
当時の間取りとかが復元されているようだった。
見学者が狭い部屋の中にぞわぞわいるので、落ち着かないまま、
お約束の龍馬の姿を見て、早々に引き上げる。
「亀山社中跡」、「亀山社中資料展示場」、風頭(フウトウ)公園、龍馬のブーツを模したドデカブーツ、龍馬たちがよくお参りしたという若宮稲荷神社、そのほか、行く先々に龍馬の像があって、しかし、それだけ。┐( ̄ヘ ̄)┌
↑
(ちょいと歩けば、あちこちに出てくる龍馬像。
龍馬像に食傷気味になる。)
(↑こじんまりした若宮神社。)
↑
(履いて記念撮影ができる龍馬のブーツオブジェ。
狭~い見晴台に設置されている。
順番待つのが大変ぜよ。
このブーツを履いて記念撮影撮ったからなんだとういうのだ?……と、激しく虚しくなる。)
ワタシ的にはどれも大して面白くもなし。
ただ、龍馬ゆかりのものと思うと、チェックせずにはおれないだけで、
その点では一応落ち着いた……って感じ。f^_^;
一番よかったのは、
石段だったり、アスファルト舗装されたりする細い坂道から見下ろす長崎の町並み。
亀山社中があったあたりは、かなり山の上である。
↓
細い坂道を、龍馬や他の志士たちは毎日上り下りしたのかと思うと、
彼らの体力、相当なものと察せられる。
どうしてこんな山の上に建てたのだろう?(龍馬通りに入ってから徒歩30分くらい?)
という疑問が生じる。
龍馬たちにとって、こんな坂道はものの10分もあれば上り下りできたのだろうか?
へでもなかったのであろうか?
今現在も坂道に沿って家々がぎっしりと建っているのだが、
ここに住んでいる人は、家の前に車などつけられない。
引越しする際など、一体どうしているのだろう?
大きな家具なども搬入搬出できないのではないの?
日々の買物だって大変だ。(><;)
山の上にスーパーがあるようにも見えなかった。
麓の町まで降りて買物してまた登ってくる生活……大変そうだ。
これから家を建て直そうとすると、もはや新しい規制にひっかかって建てられないのではないか?
長崎では車のディーラーさんは商売上がったりではないのだろうか……。
……などなど、
平地(関東ローム層)やバリアフリーに慣れてきた私にとっては
かなり戦々恐々となる長崎の住宅事情なのであった。(((( ;°Д°))))
以下、漫然ととってきた写真たち。
あまりに有名な龍馬の立ち姿。
↓
ふんぞりかえっていたニャンコ。
↓
亀山社中資料展示場では、写真や遺品が展示されているばかりだった。
写真の写真を撮る自分は何をしてるの?って気分になってくる。
まずは、やっぱり、これ!
↓
綺麗なお婆ちゃま? と思ったら、
↓
勝海舟さまだった。イヤン。(ノ_・。)
やはり、勝海舟さまは、こうであってほすぃ。( ´艸`)
↓
(ネットより借用。)
その他、当時のヒーローたち。
大村益次郎(左上)……頭でかっ! Σ(・ω・ノ)ノ!
脳みそがいっぱい詰まっていそうだ。
プチ情報:九段に靖国神社をつくった中心人物で、靖国神社に彼の銅像があるらしい。
今度靖国神社を見に行く楽しみが増えた。
高杉晋作(左)……す・て・き。
「おもしろきこともなき世をおもしろく」の名言があるね。
どちらも西郷隆盛?(ということになったらしいが、別の人なのだとか……?)
しかし、当時文明の最先端の精密機器だったカメラを前に、
みなさん、上手に撮られているもんだ。
昔は「魂を取られる」などといって、カメラで撮られることを恐怖した人々もいたと聞くが、幕末の志士たちは、なんともカッコヨク撮られているではないの。
カメラマンもよかったのかもね?
しかし、これだけの写真を撮るのは、当時かなりな費用が必要だったろう。
この費用はどこから出ていたのだろう?????
↑
方形の鳥居……鳥居としては方形は珍しいのだそうだ。(=◇=;)
で、なぜ方形なのかはわからず……。
↑
坂道の斜めな土地は石垣で整えられていた。
坂をさらに上ると、
「亀山焼き窯跡」なるものがあった。
オランダ人に売る水壷を作ったことが起こりらしい。
明治になる前に廃れてしまい、
いまや「幻の亀山焼き」となっているらしい。
↓
オランダ人にターゲットを絞った商売でなかったら、
今も続いていたかもしれない……?
来ずにはおられなかった亀山社中跡だが、
訪れたからといって、
龍馬について新たに深く知る……ということもなく、(^^ゞ
ただ、亀山社中への道が急で狭く、
途中の見晴らしはなかなかのもので、
その道々に建っている家々はさぞ生活が不便だろう
……ということが、とても興味深く思えた
龍馬コースではあった。(・・。)ゞ
つづく