関西桜ツアー25
(長谷寺3)
(2008年4月中旬、滋賀、京都、奈良の桜を見て周るバスツアーの続きです。)
奈良の長谷寺。
登廊(ノボリロウ)を上っていると、
すんごく古びた梅の木あり。
柵で囲われ、立て札付き。
由緒ありげな梅の木なり。
↓
「紀貫之(キノツラユキ) 故里(フルサト)の梅
人はいさ
心も知らず故里の
花ぞ 昔の
香に にほひ
ける
(古今集)」
百人一首にも取られている有名な歌だが…………。
「心も知らずふるさとは」じゃなかったっけ?
「は」のところが「の」になっている。∑(-x-;)
しかし、「の」は消されたように薄くなっている。
間違いに気づいた誰かがそっと必死に消そうとしたのだろうか?
長谷寺ともあろう寺が、なぜこんな書き間違いをしているのか、理解不能。┐( ̄ヘ ̄)┌
もしかしたら、どんなに「は」と書き直しても、天狗がいたずらで「の」に書き換えてしまうのかもしれない?
書き間違いはさて置き、
この歌について、そして長谷寺について、とても詳しく写真をアップしているサイト発見。
↓
http://www.y-morimoto.com/saigoku/saigoku08a.html
これによると、
どうやら紀貫之が初瀬参り(=長谷寺参り)した際に、宿の主人に嫌味を言われ、人の心の移り変わりを感じたことがあったらしい。∑(-x-;)
貫之が長谷寺のこの梅を前にしてかの歌を詠んだのかどうかは、わからなかった。
が、もしそうだとしたら、この梅は、貫之(800年後半~900年半ば頃の人)の生存中に咲き匂っていた梅で、樹齢1100年を越える恐るべき梅の木ということになる。
宿の主人は一体どんな嫌味を貫之に言ったのだろう?(ノДT)
昔は愛想よく慇懃な主人が、貫之に連れなくにべもない態度で冷たい言葉を投げかけたのだろうか。
そんな主人は嫌だなぁ。
ましてお参りに来ている人にそんな態度はもってのほかだ。
宿の主人はいつでも旅人を温かく迎えてほしいものだ。
しかし、宿の主人がいつもいい人とは限らないのは、今も昔も変わらないんだねぇ。Y(>_<、)Y
人の心が変わってしまうというのも、普遍の真理だぁね。Y(>_<、)Y
変わらずに匂った梅は詩人を慰めたことだろう。
その梅は、今年も咲いたのだろうか?
桜ほころぶ境内にあって、古びた梅はただ蒼然と立っているだけであった。
清冽な空気漂う長谷寺に来ると、だれも言葉が溢れてくるらしい。
一茶の句碑もあった。
↓
「此(コノ)裡(ウチ)に春をむかへて
我もけさ清僧の部也(ナリ) 梅の花
一茶
寛政十年(1798) 元旦 登嶺の際詠まれし俳句
荘厳な雰囲気の山中で迎えた今朝身も心も清浄(ショウジョウ) 自分もまた清僧の仲間入りした感あり 一山に響く読経の声を耳に新しい人生の角途(カドデ)の決意もみなぎる
この心境を言えば 寒気の中に凛として香り咲くまさに梅の花の如し」
一茶も、紀貫之が心解いた梅の木の前でこの句を詠んだのだろうか。(-^□^-)
その時、すでにこの貫之ゆかりの梅である旨の立て札は立っていたのだろうか。
あぁ、これが紀貫之公のフルサトの梅かい。
どりゃ、あたいも一句……なんて思ったのかな。
元旦にこの寺にいたとしたら、さぞ心改まった思いであったことだろう。
桜の季節、木々が枝先で歌うがごとく花開いて賑やかな初瀬山だが、
冬、新春ともなれば、厳しい寒さで、花もまだ少なかろう。
その中でほっこりと咲く梅の花はさぞ温かかったであろう。
凛と凍えるような新春の山の空気を震わせる読経の荘重な響きは、一茶の心も震わせたことだろう。
しかし、「清僧の部也」というのが、なんともおかしい。( ´艸`)
いつもはどの部だと自覚していたのだろう?
実に心優しい句を作る一茶だが、彼は、見てくれは結構ひどかったんじゃないかなと私は想像している。
今で言えば、加齢臭プンプンの、ボロ雑巾のような、冴えない風貌だったのではないか…と。(^^ゞ
遺産相続などに巻き込まれ、借金に負われ、家族の愛に飢え、
人間の醜い部分と闘いながら、そうした醜さに染まってさえいる己を感じること度度だったのではなかろうか。
俗にまみれ齷齪している部なり、だったのではなかろうか。
そんな彼が新春の元旦に、清僧の気持ちで、新しい人生を思い描いていた場所に、
私はバスツアーでのこのこやってきてしまって、
卑俗の部なり。
しかし、今の世はありがたや。(。-人-。)
紀貫之の頃、私の祖先は、どこぞの山で薪でも拾って食いつなぐのに必死で、長谷寺など存在も知らなかったのではないだろうか。
一茶の頃、私の祖先は、どこぞの田畑を耕す小作人として、農作業に追われ、少ない稗粥など啜って、腹減った~とぼやいていたのではなかろうか。桜を見るために旅をするなんていう発想など微塵もないままに。
あぁ、ありがたや、ありがたや、ありがたやの初瀬山なり。(。-人-。)
ふと思った。
「長谷寺(ハセデラ)」って、「初瀬山(ハツセヤマ)」の寺だから、「初瀬参り(はつせまいり)」が縮んで「はっせまいり」ってんで、「はせでら」になったんじゃない?
後記:
平安時代の歌人、紀貫之(キノツラユキ)の故里の梅は、苔むして蒼然として見えたのだが、
撮ってきた写真をアップしてよくよく見たらば、
梢の方にところどころ、微かに、微か~に
赤い花がっっっっ!Σ(・ω・ノ)ノ!
咲いてたんかいっ!(=◇=;)
この貫之の梅は紅梅なり~~!
しかも、色濃いっ!
これまたびっくり!
↓
(24へ) つづく (26へ)
(長谷寺3)
(2008年4月中旬、滋賀、京都、奈良の桜を見て周るバスツアーの続きです。)
奈良の長谷寺。
登廊(ノボリロウ)を上っていると、
すんごく古びた梅の木あり。
柵で囲われ、立て札付き。
由緒ありげな梅の木なり。
↓
「紀貫之(キノツラユキ) 故里(フルサト)の梅
人はいさ
心も知らず故里の
花ぞ 昔の
香に にほひ
ける
(古今集)」
百人一首にも取られている有名な歌だが…………。
「心も知らずふるさとは」じゃなかったっけ?
「は」のところが「の」になっている。∑(-x-;)
しかし、「の」は消されたように薄くなっている。
間違いに気づいた誰かがそっと必死に消そうとしたのだろうか?
長谷寺ともあろう寺が、なぜこんな書き間違いをしているのか、理解不能。┐( ̄ヘ ̄)┌
もしかしたら、どんなに「は」と書き直しても、天狗がいたずらで「の」に書き換えてしまうのかもしれない?
書き間違いはさて置き、
この歌について、そして長谷寺について、とても詳しく写真をアップしているサイト発見。
↓
http://www.y-morimoto.com/saigoku/saigoku08a.html
これによると、
どうやら紀貫之が初瀬参り(=長谷寺参り)した際に、宿の主人に嫌味を言われ、人の心の移り変わりを感じたことがあったらしい。∑(-x-;)
貫之が長谷寺のこの梅を前にしてかの歌を詠んだのかどうかは、わからなかった。
が、もしそうだとしたら、この梅は、貫之(800年後半~900年半ば頃の人)の生存中に咲き匂っていた梅で、樹齢1100年を越える恐るべき梅の木ということになる。
宿の主人は一体どんな嫌味を貫之に言ったのだろう?(ノДT)
昔は愛想よく慇懃な主人が、貫之に連れなくにべもない態度で冷たい言葉を投げかけたのだろうか。
そんな主人は嫌だなぁ。
ましてお参りに来ている人にそんな態度はもってのほかだ。
宿の主人はいつでも旅人を温かく迎えてほしいものだ。
しかし、宿の主人がいつもいい人とは限らないのは、今も昔も変わらないんだねぇ。Y(>_<、)Y
人の心が変わってしまうというのも、普遍の真理だぁね。Y(>_<、)Y
変わらずに匂った梅は詩人を慰めたことだろう。
その梅は、今年も咲いたのだろうか?
桜ほころぶ境内にあって、古びた梅はただ蒼然と立っているだけであった。
清冽な空気漂う長谷寺に来ると、だれも言葉が溢れてくるらしい。
一茶の句碑もあった。
↓
「此(コノ)裡(ウチ)に春をむかへて
我もけさ清僧の部也(ナリ) 梅の花
一茶
寛政十年(1798) 元旦 登嶺の際詠まれし俳句
荘厳な雰囲気の山中で迎えた今朝身も心も清浄(ショウジョウ) 自分もまた清僧の仲間入りした感あり 一山に響く読経の声を耳に新しい人生の角途(カドデ)の決意もみなぎる
この心境を言えば 寒気の中に凛として香り咲くまさに梅の花の如し」
一茶も、紀貫之が心解いた梅の木の前でこの句を詠んだのだろうか。(-^□^-)
その時、すでにこの貫之ゆかりの梅である旨の立て札は立っていたのだろうか。
あぁ、これが紀貫之公のフルサトの梅かい。
どりゃ、あたいも一句……なんて思ったのかな。
元旦にこの寺にいたとしたら、さぞ心改まった思いであったことだろう。
桜の季節、木々が枝先で歌うがごとく花開いて賑やかな初瀬山だが、
冬、新春ともなれば、厳しい寒さで、花もまだ少なかろう。
その中でほっこりと咲く梅の花はさぞ温かかったであろう。
凛と凍えるような新春の山の空気を震わせる読経の荘重な響きは、一茶の心も震わせたことだろう。
しかし、「清僧の部也」というのが、なんともおかしい。( ´艸`)
いつもはどの部だと自覚していたのだろう?
実に心優しい句を作る一茶だが、彼は、見てくれは結構ひどかったんじゃないかなと私は想像している。
今で言えば、加齢臭プンプンの、ボロ雑巾のような、冴えない風貌だったのではないか…と。(^^ゞ
遺産相続などに巻き込まれ、借金に負われ、家族の愛に飢え、
人間の醜い部分と闘いながら、そうした醜さに染まってさえいる己を感じること度度だったのではなかろうか。
俗にまみれ齷齪している部なり、だったのではなかろうか。
そんな彼が新春の元旦に、清僧の気持ちで、新しい人生を思い描いていた場所に、
私はバスツアーでのこのこやってきてしまって、
卑俗の部なり。
しかし、今の世はありがたや。(。-人-。)
紀貫之の頃、私の祖先は、どこぞの山で薪でも拾って食いつなぐのに必死で、長谷寺など存在も知らなかったのではないだろうか。
一茶の頃、私の祖先は、どこぞの田畑を耕す小作人として、農作業に追われ、少ない稗粥など啜って、腹減った~とぼやいていたのではなかろうか。桜を見るために旅をするなんていう発想など微塵もないままに。
あぁ、ありがたや、ありがたや、ありがたやの初瀬山なり。(。-人-。)
ふと思った。
「長谷寺(ハセデラ)」って、「初瀬山(ハツセヤマ)」の寺だから、「初瀬参り(はつせまいり)」が縮んで「はっせまいり」ってんで、「はせでら」になったんじゃない?
後記:
平安時代の歌人、紀貫之(キノツラユキ)の故里の梅は、苔むして蒼然として見えたのだが、
撮ってきた写真をアップしてよくよく見たらば、
梢の方にところどころ、微かに、微か~に
赤い花がっっっっ!Σ(・ω・ノ)ノ!
咲いてたんかいっ!(=◇=;)
この貫之の梅は紅梅なり~~!
しかも、色濃いっ!
これまたびっくり!
↓
(24へ) つづく (26へ)