part93 カオサン通りへ移動の朝


 今日は朝から雨だった。そんな朝は散歩もせず、宿のカフェで窓際の席を占領して、一人モーニング・コーヒーを飲みながら空模様を眺めて過ごす。窓にはガラスが入っていないので、カフェにいながらにして、朝の路地裏の雨を含んだ空気がそのまま感じられる。


 今の宿は2泊しただけで、今日はもうカオサン通りへ移動する。雨はもうじき止みそうである。今日から、あの "猥雑な喧騒の通り" カオサンロードを基点にするのかと思うと、先が思いやられる。ほんの束の間とばかり、朝の雨の静けさに耳を澄ます。


 と、背後から、なにやら聞き覚えのある女の声がカフェに入って来た。その声は、席に着くや、メニューを吟味するでもなく、「あぁ~、もぉにんぐせっとぉ、とぅぅ。」 すぐさま「モーニング・セット」を2人前注文した。長逗留の客なのだろうか。すぐに連れの男の声が追って入って来た。「モーニング・セット、注文したよぉ。モーニング・セットで、いいでしょぉ?」「はぁ、ほぉ。」......男のそのおっとりした返事の仕方にも、これまた記憶がある。これは、もしかして? 振り返って見ると、その二人はヴェトナムの中部の街、フエで出逢った父娘であった(part42 参照)。


 一年間有効のオープンチケットでアジアを旅して周っている父娘だ。ヴェトナムからラオスへ向かっていた我々と、逆にラオスからヴェトナムに入ってきたばかりの彼らと、ヴェトナムのフエのツアーボートの上で、ばったり出会ったのであった。彼らにとってラオスはひたすら長閑で居心地がよかったらしく、 "ラオス惚け" とやらで、ぽぉ~と頭のてっぺんから汽笛が鳴っているような、暢気な父娘だった。見るからにあんまり暢気なので、あなたたちがこれから旅するヴェトナムは、特にサイゴン(ホーチミンシティ)は、「生き馬の目を抜くような所なのだ! ぼ~っとしていたら強盗に遭うぞぉ。ぼったくられるぞぉ。」と、余計な忠告を散々吹き込んだのだった。


 もっとも我々の戦々恐々たる話を聞いても、娘さんの方は、「やるなぁ、ヴェトナムゥ。」と賛嘆の声を上げるばかりで、なおさら我々を心配させたのであった。お父上は全く会話に参加せず、ただただ静かに影のように娘さんの傍に佇んでいるばかり。旅の危険など、どこ吹く風。飄々としていらした。


 あれから1ヶ月ちょっと経って、バンコクで再び会えるとは、ビックリだ。しかも広いバンコクで、何百とある宿の中で、同じ宿に泊まり合わせるとは! なんたる偶然であろう。やはり我々同様、「日本人経営者」というところに惹かれたのであろうか。


 しかし、よく考えれば、もともとこの宿は、彼女が勧めてくれた宿であった。あのツアーボートの上で、既にバンコクを旅してきていた彼女が、 "バンコクのお勧めの宿" として、我々にその名を教えてくれたのだった。そのこともあって、我々はこの宿にとりあえず決めたのであったよ。再びバンコクを訪れた彼らは、当然自分たちのお気に入りの宿に泊まったということだ。


 ボートツアーで出会った時(2001年5月21日)、彼らは旅を始めて8ヶ月目だと言っていた。あれからどこをどう旅してきたのだろう? ヴェトナムは無事に楽しく過ごすことができたのだろうか? 


 振り向いて目を丸くして驚いている私の視線などまるで気にせず、二人は「モーニング・セット」を平らげていく。ううむ。やはり相変わらず、ただものじゃない。我々にとっては強烈な父娘で、忘れようにも忘れられないが、向こうはこちらのことなど覚えていないのかもしれない。


 で、向こうが食事し終わるのを待って、話しかけてみた。「こんにちは。覚えてますか? フエのツアーボートでご一緒した......」と名乗ってみた。彼女はまだ眠たげな、私を見つめているのかいないのか、よくわからない眼差しで、「ああぁぁ。いやぁ。こんにちはぁ。」 ......私のことを思い出したのか出さないのか、あまりはっきりしない茫洋とした様子が、相変わらずだ。お父上の方が、娘さんに、「はぁ、おい。じゃぁ、先に、モニュモニュ......。」と何やら呟いて、すぅっとカフェを去っていってしまった。そういうところも、相変わらずで、お父上も、やはりただものではない。


 「どうでした? ヴェトナムは?」と聞くと、「いやぁ、参りましたぁ。」と、彼女は困り顔を作ってみせるのだが、全体的な様子が全然「参って」いないのであった。


 聞くと、サイゴンでスリに遭ってしまったと言う。旧大統領官邸へ行く途中、彼女1人で歩いていたときのこと。3人組みの男達が寄ってきて、物売りのように、三方から何やら嵩張(かさば)る物を彼女の目の前に広げて見せ、彼女の身体にべたべた触れて気を逸(そ)らせ、広げた嵩張る物の下から、彼女の腰もとのバッグを切って、中から財布を盗(と)って行ったと言う。


 3人組がさーっと去っていって、掏(す)られたことに気が付いた彼女は、「もぉ、プッツンきてぇ、すぐにダーッと駆けて追いかけましたよぉ。一人捕まえて、ボッコボコに殴ってやりましたぁ。」 ......「ボッコボコ」? てんこ盛りにされたマッシュポテトのように、ぽってりとろ~んとした感じの彼女から、「ボッコボコ」なんて言葉が発せられるとは、実に奇妙だ。思わず確認する。「あなたが、殴ったの? そのスリの一味を? ボッコボコに?」 


 すると彼女、ちょっと嬉しそうに、もにもにむっちりしたその腕をちょいと振り回して、実演付きで説明してくれた。「はぁ。こんな風に。ボッコボコに。」「はぁ。その場で。ボッコボコ、ボッコボコ殴っていたら、通りかかった人が、『財布が向こうの方で落ちてたよ』って、私の財布を拾って持ってきてくれたんだけどぉ。中身が空っぽだったんすよ。空っぽの財布を見たら、猶のこと頭にきてぇ......。はぁ。」 で、猶のこと頭にきた彼女は、さらに5分ほど一方的にスリを殴りつけていたと言う。そのうち警官も(彼女を止めに?)来て、被害届けなどの必要書類は取れたらしい。


 なんとも気の毒な話だ。新聞や嵩張るものを人の体に押し付けてきて、その隙に貴重品などを盗るというスリの手口は、話には聞いていたが、それと全く同じ手口で実際知り合いの人がやられたとなると、何とも他人事(ひとごと)とは思えない。やはり恐るべき都、サイゴン! しかし、どう見ても「速く走れないだろう?」と思われる彼女に捕まり、ボッコボコに殴られ続けるスリの一味は、なんとも、弱々しく、実はそんなに悪い奴じゃないんじゃないかな、とも思ってしまう。


 細かいことはつっこんで聞かなかったが、この父娘が一体どれほどの被害を被ったことか。運が悪いと言うべきか、やられるべくしてやられたと言うべきか。災難でしたね、としか言いようがない。


 おまけに彼女、サイゴンでは足を怪我して、その部分が膿んでしまい、日本人ご用足しの「ド偉く高い病院」に1週間入院しなければならなかったと言う。 (そう言えば、「東南アジアで怪我をしたら、きちんと治療した方がよい。下手に放っておくと、そこからばい菌が入って大変なことになる。」って、聞いたことがある。本当なんだ。気をつけよう。)


 彼ら父娘にとっては、散々のサイゴンだったようだ。しかしまぁ、とにかく無事に旅を続けられていて、よかった、よかった。バンコクではどうするのか? と聞いてみると、今日はこれから、日本からバンコクにやって来る母親と叔母と落ち合うのだと言う。バンコクで一族が集合なんて、お洒落(しゃれ)だね! と思っていると、そんな "お洒落な" 事情ではなかった。全然 "洒落にならない" 事情があったのであった。


 彼女は、今泊まっている日本人経営の宿で、盗難にあったのだった。貴重品をそっくり盗まれてしまったと言うではないか。宿をすっかり信用して、貴重品の入ったカバンを開けっ放しにして部屋に置いておいたら、金からパスポートからなくなったらしい。部屋には鍵を掛けていたから、どう考えたって、宿の人しか盗れる人はいない。そのことを問い質したら、宿とも気まずい関係になってしまったと言う。別の宿に移りたいが、しかし、警察やら大使館やらに、連絡先として今のホテルの住所を教えてきたので、今更住所変更すると色々不都合なので、宿を替えることもできないという。


 そりゃ、そうだろう。お気の毒な......。彼らにしてみれば、忌まわしい泥棒宿だ。 (しかも、「お気に入りの宿」として信用していただけに、その盗難騒ぎはショックだろう。) 宿の方は、言いがかりを付けてくる疎(うと)ましい客として彼らを見る。当然、険悪なムードになる。そんな宿には一時たりともいたくないものだ。しかしお金もないから、外出して時間をつぶすこともままならないわけだ。しかも色々な書類手続き上、あと1週間はバンコクにいなければならない。そんな、一文無しで困り果てた二人を救うべく、日本から母と叔母が駆けつけるというわけなのだった。


 やがて彼女はバスの路線図日本語版を手に、お父上と出かけて行った。見た目は依然として、おっとりのんびり見える二人の後姿に、お気を付けて! と祈らずにはいられなかった。......しかしあの父の妻にして、あの娘の母である女性って一体......。ちょっとお目にかかってみたいものだ。


 我々は今日のうちに宿をチェックアウトしてカオサンに移動するので、もう彼らにバンコクでばったり遇うこともないだろうが、実に妙な味のある親子であった。ひょっとしたら、彼らは旅した各国の警察に通じ、各国の被害届けを持っているのではなかろうか。なんだかんだ、災難に見舞われながら、「はぁ。ほぉ」と暢気さを失わない彼らは、やはりただものではない! お互い勝手気ままな旅の途中で、2度もお目にかかるとは、不思議なこともあるものだ。 

 

                         つづく         

 

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