むかーし、むかしのお話。

歯医者さんの待合室でのこと。

冬の陰陰滅滅とした寒いある日、待合室は、入れ歯の具合が悪かったり、歯の痛みをこらえている人たちで、不機嫌そうな面々勢ぞろいで、外の天気よりもいっそうどんよりしていた。当時子供だった私にも、そこはうんざりする重苦しい空気に押しつぶされていることが見て取れた。

と、看護婦が次なる患者の名を呼んだ。「奥村チヨさ~ん」(当時のスター歌手。たくさんのファンがいた。)

はっ!と皆が顔を上げた。「はっ」ていう音が聞こえるようだった。
皆の目が期待と疑いに輝いた。こんなところにあの奥村チヨがいるわけない。でも、もしかして・・・・・・と。歌手だから、歯の手入れに来ているのか?皆の目が、待合室に注がれた。誰が立ち上がるんだ? 奥村チヨは、どこに隠れていたんだ?と。

ほんの一瞬だったけれど、ものすごい緊張の一瞬だった。
次の瞬間、「ふぁ~い」と間の抜けた返事とともに、1人のおばあちゃまが立ち上がって、いそいそと診察室へと進んだ。

「ははは。やっぱり」という緩んだ笑いがみんなの顔に溢れた。誰も声にだして笑ったわけではないけれど、「ははは」という緩んだ声が、目に見えた一瞬であった。

緊張の後の緩んだ待合室は、しかし、そのためか、それまでのギシギシとささくれだった雰囲気が解け、なんだか、ぼんやりとやさしい空間に変わったのであった。
ありがとう。奥村チヨさん。