2001年夫婦世界旅行の続きです。ヴェトナムからラオスのサヴァナケットに着きました。スコットランド人たちが持っていたガイドブック、「ロンリー・プラネット」から受けたカルチャーショックが消えません。



part54. ロンリープラネット考



 サヴァナケットまでの道連れだったスコットランド人は、内容が充実していることで知られる、その名も『ロンリープラネット』なる分厚いガイドブックを手にしていた。ラオス一ヶ国分だけでも厚さ5cmはあろうかという、辞書のような一冊だ。欧米人の旅行者はたいていこのロンリープラネットを携帯しているのである。ちょっと見せてもらったら、実に内容が詳細、緻密である。地図も肝心な所を過不足なくきっちり押さえてある。英語で読まねばならないのが、難点ではある。日本にはなぜロンリープラネットのような内容の濃いガイドブックがないのか。いや、ある。『地球の歩き方』、その他旅の達人によって書かれた様々な特集本などに、かなりいいものがある。しかし、「これ一冊でOK!」という充足度を比較すると、やはり内容が落ちる。(本の厚み自体が全く違うのだから、当たり前ではある。日本では分厚いガイドブックは売れないのだろうか。) それでも、日本語で書かれた、我々にはありがたい、ありがたい、ガイドブックではあったのだが。



 欧米人のガイドブック『ロンリープラネット』は分厚く、内容も濃く、充実しているのに、なぜ“旅好き”の日本人のガイドブックが薄く、それゆえに内容も薄くなるのか。これは、旅を楽しむのに与えられる時間が圧倒的に違うからだと、私は思う。日本にそもそも「ヴァカンス」なんて言葉は存在しないのだ(きっと)。そんな概念、ないのだ(多分)。長期休暇といったって、ごく一般的には、1週間2週間の夏休みがいいところだろう。3、4日取れればいい方だ、なんて話も珍しくない。しかし先進国欧米文化圏の人々の休暇は、我々の“土日の連休”にあたるのは、彼らにとって2、3ヶ月に一回は与えられる1週間、2週間の“短いホリデイ”であり、我々の夏や冬の“長期”休暇といったら、彼らにとっては1ヶ月2ヶ月は当たり前のヴァカンスだ。 (もちろん国によっても色々だろうし、ホワイトカラー的職種に限られるのであろうが。) 彼らは、現役引退した年金生活者のような人々だって、週単位、月単位でゆっくり旅をしている人が圧倒的だ。だから、欧米人が多く泊まるようなリゾートホテルにチェックインしようものなら、フロントで「滞在は何ヶ月ですか?」なんて、日本人にとっては桁外れな質問が飛んできたりするのである。週単位、月単位で旅ができる欧米人は、旅先の国を十分に楽しめるわけだし、そのためにも分厚い、内容の濃いガイドブックが必要とされるのだろう。



 ところが我が日本はどうだ。二泊三日、三泊四日、せいぜいが1週間の旅となると、その間にあれやこれや迷っている暇はない。自分で色々調べて計画を立てて、その国を自分なりに訪れるなんていう時間はないのだ。だから、必然レディメイドのパックツアーが無駄のない旅の方法となる。そうなると、もう訪れる観光名所も限定され、移動手段も用意されているのだから、余計なガイドは要らない。限定された名所の説明が入っていて、持ち運びに便利な薄くて軽いガイドブックがリーズナブルってことになる。だから日本のガイドブックはイメージ写真にたくさんのページを割く。名所旧跡の裏に隠された物語、逸話などは知らなくてもよい。現地のガイドさんが大筋の説明してくれるだろう。



 (そういえば、余談だが、台湾の龍山寺を訪れたとき、日本人団体客を相手に現地人ガイドが説明して回っていたが、見事な石の彫刻を差して、「これ、石。ですね。皆様もご存知です。“ミギ・ジンゴロー”が彫ったですね。」ととんでもない出鱈目を言っていた。“右”じゃないよ。”左甚五郎“だ。そもそも左甚五郎が何で台湾の寺に現れるんだ?) 日本人旅行者は、ガイドブックを開いては、まずそのイメージ映像で気分を盛り上げ、カルガモよろしく、ツアーガイドに引率されて引き回され、時間に追われ、慌しい「受身」観光をすることになる。入場料も、休館日も、バス代も、バスの時刻表も、タクシー会社も、現地のツアー会社もチェックする必要はない。薄いガイドブックで十分なのだ。



 「東南アジアでは欧米人より日本人が圧倒的に腹を壊す」と、ひところ新聞でも取り上げられていたが、これは語弊があると思う。日本人ばかりが腹を下すのではない。国籍に係わらず、皆腹を下すのだ。外国へ行けば水が変わる。水が変われば腹を壊しやすい。腹を壊すのは異国に分け入った洗礼のようなものだ。



 現地に到着して腹を下した場合、欧米人は1、2ヶ月の長期休暇のうち、最初の一週間ほどの“洗礼”を静かにやり過ごし、後は元気にヴァカンスを楽しめる。しかし日本人の場合、ようやく治ってきたと思った時には帰国しなければならない。「腹を下しただけの苦しい旅行」という悲しい結果となってしまうわけだ。おまけにハードスケジュールだから、体力も弱ってきているので、まともに“洗礼”を受けてしまうというのも、日本人ならではの要因だろう。A型血液は免疫性に弱いという話もあるので、A型人口が多い日本人が腹を壊す確率も他国と比較すると大きくなるのかもしれない(?)。ま、血液型のことはともかく、現地で体調を整える時間の余裕がないハードスケジュールの、時間欠乏症の日本人には、やはり『ロンリープラネット』は、一般、必要とされないであろうと思われる。旅を濃厚に楽しむ余裕も、旅を哲学する余裕も、現代日本人には無理な注文だと思われる。海外旅行にこれだけ繰り出しているのに、これだけ海外に疎い国民もすくないのではあるまいか?



 もう一つ、日本に『ロンリープラネット』が生まれない訳。それは、日本人の国民性にあるように思う。あるいは言語感覚と言ってもいいかもしれない。



 日本人御用達の安宿や食堂などには、よく日本人による日本人のための旅情報ノートが置いてある。オンタイムの情報が書かれているありがたいノートであることもあるが、ほとんどは読むに耐えないくだらない落書きだ。正確で適切な情報というものがほとんどない。字そのものが判読不可能なものも多々ある。ところが欧米人や日本人以外の東南アジア圏の人々の旅情報ノートは、全く違う。これから旅をする人への的確な情報が端的に記されているのだ。自分の名前と国名、日付だけを書き付けている場合も多いが、それは記念のつもりだろう。どちらにしてもくだらないことはグダグダ書き付けない。つまり、海外を旅する諸外国人の人々は、その旅情報をきっちり自国の人々に伝えようという意思を持ち、そのための言葉を的確に使うことができるが、日本人にはそういう意思が希薄で、そういう言語表現においても実に稚拙だということだ。だから『地球の歩き方』などというガイドブックがあること自体、日本においては、ひょっとして奇跡に近い快挙なのかもしれない、などと思う私であった。



 日本人は旅というものを、ひどく個人的にしか受け止めないものなのかもしれない。あるいは逆に、旅を内面的、観念的、お祭り的に受け止めすぎて、“方法としての旅”という側面についての配慮など思考の枠外にあるのかもしれない。



 とにかく『ロンリープラネット』の日本語版を出してほしいと願う私であった。そして、日本のどこぞの出版社が『日本語訳ロンリープラネット』を出すことは、『ロンリープラネット』を英語ですらすら読めるぐらいの英語力を身につけることと同じくらい難しい障害があるように思われる私でもあった。

             つづく

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